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時空を超えた探し物

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 楽しみなことというのは、半永久的に続くものではないということくらいは分かっていた。次第に有頂天になっていくと、どこかに頂点があり、それを超えると、後は冷めてくるというのも分かっていたつもりだ。映画に関しては、冷めて行ったという意識はないのだが、いつの間にか映画館に行くことがなくなってしまったのは、ただ単に出かけるのが億劫な時期がちょうど、有頂天を超えてから、下り坂と重なってしまったというだけのことだったに違いない。
 映画を観に行かなくなってからというのは、どこか心の中にポッカリ穴が空いたような気がしていたのだが、その直接的な原因がどこにあるのか、気が付いていなかった。
 ちょっと考えればすぐに分かりそうなことなのに、どうしたことなのだろう?
 映画館に通っていた時期というのは、ちょうど一年くらいのことだっただろうか?
 毎週の土日の休みのうちの土曜日に映画に行くようにしていたので、五十回ほど一人で映画に赴いたことになる。その数字が多かったのか、少なかったのか、今考えてみると、多かったように思えていた。
 一つの作品は一か月近くはロードショーされることを思うと、通っていた映画館は四つを下らないことになる。どの映画館も広さに変わりはなかった。真っ暗な中でスクリーンに映し出された映像は、映画館の大きさに比例するわけではない。大きな映画館でも、こじんまりとした映画館でも、暗くなってしまえば、さほど大きさに違いは感じられない。それであれば、こじんまりとした映画館の方が気分的にも楽だ。いつもこじんまりとした映画館を選ぶのは、そう言った気分的な理由もあってのことだった。
 ちょうど一年経ってから、急に映画館に行かなくなったのは、確かに億劫になったというのも理由だが、それだけではなかったように思う。その理由については忘れてしまったが、忘れてしまうということは、悟にとってはさほど珍しいことではなかった。
――後になって思い出そうとしても、思い出すことができないということの中には、肝心なこともあったような気がする――
 と思うようになったのは、映画館に急に行かなくなった理由を忘れてしまった時期くらいだったように思えてならない。
 映画館に行かなくなったからと言って、レンタルビデオを借りてみようとは思わなかった。その頃は、テレビで再放送されるものを見ればいいという程度で、どうしてもその時期に見ないといけないという意識はなかった。レンタルビデオを借りるようになってからでも、新作を特別に意識しているわけではなく、最初から何が見たいのかを決めて立ち寄るというよりも、陳列棚を見ながら見たいものを探している時間が、結構楽しかったりする。そんな時間を楽しむことができるようになるなど、その頃は考えてもみなかった。
 三十代の頃は、まだまだ気が短い方だった。急にキレることもあり、落ち着きがない方だった。
――こんな感じで、落ち着いてくるようになるんだろうか?
 と思っていたが、
「きっかけなんて、いきなり訪れるもので、本人が意識しない間に通りすぎ、それでもちゃっかりときっかけをものにしていたりするものだよ」
 と言われたことがあったが、
「そんなものかな?」
 と、曖昧に答えた。
 話をしてくれた人が、よく言えばポジティブな性格で、楽天的なところがあった。そんな人の話ほど、信憑性を疑いたくなり、話を軽くしか見ることができない。その時は曖昧に答えたが、時間が経つと、
――それももっともだ――
 と思うようになり、いつの間にか、その「きっかけ」を待ち望むようになっていた。
 しかし皮肉なことに意識すればするほど、きっかけを感じることができず、気が付けば初老と呼ばれる年齢になっていて、人からは、
「さすが落ち着いていらっしゃる」
 と言われるようにはなったが、それが年齢や容姿からの話という可能性もあり、素直に喜んでいいのかを疑いたくもなっていた。しかし、言われるたびに自分でもその気になっていき、気が付けば、
――年相応の落ち着きが見られるようになったんだろうな――
 と感じるようになっていた。
 離婚してから性格が変わったと思っている悟は、それまでに感じたことがない「寂しさ」に対して敏感だったことに気が付いた。離婚してからサッパリしたという意識とは別に、寂しさを感じていたのも分かっていた。
 だが、離婚してから寂しさに敏感だったはずの自分が、寂しさだけに包まれてくると、
――寂しさに対して、感覚がマヒしてきた――
 と思うようになると、
――感覚がマヒするまでには、必ず通り抜けなければならない何かがある――
 と思った。
 感覚がマヒするまでに至るには、一度痛みを最大限までに、気絶するくらいの感覚を味わうことでしか得ることができないと思っている。通り抜けなければならない何かというのも、限りなく痛みを最大限までに感じる必要があるということだろうか? 寂しさというほど地味で感情を押し殺したような感覚もない。そこのどこに痛みを感じるというのか、考えれば考えるほど、疑問だった。
 表面ばかりしか見ていないことは分かっていた。一つどこかを裏返せば、まったく違ったものが見えてくるかも知れないという気がしていた。それは、ビデオを見ている時に感じることは絶対にないと思っていた。なぜなら、
――映像に写された世界は、あくまでも虚像であり、現実世界とは絶対的に相容れないものがあるに違いない――
 と思っている。
 映像を作る方としても、もちろん、現実と虚像とをシンクロさせて見てほしいとは思っているだろうが、重ね合わせるなどという発想はない。
――いかに現実の発想に近い形で作品を作ることができるか――
 というのが永遠のテーマなのだ。
 もし、現実の世界と虚像の世界を混同して考えるような人がいれば、却ってそれは危険なことであり、クリエーターがそんなことを望むはずはない。作品はあくまでもフィクションであり、フィクションだからこそ、作者の独創性が表に出てくるというものである。
 悟は、ドキュメンタリーやノンフィクションなどよりも、フィクションの方が圧倒的に好きだった。
 ただ例外もある。
「俺は歴史ものだけは、史実に従っている方が好きなんだ」
 確かに史実を揺るがす発想を搦めたスペクタクル戦記物も嫌いではないが、史実と違っていれば、何が正しいのか頭の中で混乱してしまう。
 歴史認識に関しては、教養として身につけていたいと思っていることで、歴史ものだけはノンフィクションを読んだりしていた。
 四十歳になった頃から、映像よりも、読書の方が主流になってきた。仕事が終わってから立ち寄ったり、休みの日に出かけて立ち寄る場所に、必ず本屋は入っていた。
 最初の頃は歴史ものをよく読んでいた。特に気になって読んでいたのは、歴史上の人物を一冊の本にまとめたものが多く、時代背景は戦国武将がほとんどだった。
 しかも有名大名というよりも、ナンバー2くらいの人を読むようになっていた。軍師と呼ばれる人だったり、ブレーンだったり、渋めのところをチョイスして読み込んでいったのである。
 歴史ものを二年ほどずっと読んできたが、急に恋愛モノに目移りした時期があった。
作品名:時空を超えた探し物 作家名:森本晃次