小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

病める道化師

INDEX|3ページ/4ページ|

次のページ前のページ
 





 黒川はじっと橘の唇を見詰めていた。雨の水滴がついて青褪めた唇を見ながら、こいつと寝たいわけじゃないのだと思った。欲情は感じない。その唇をどうにかしたいともされたいとも感じなかった。
 長い間、それでも黒川はずっと、それを言ったら橘がどんな顔をするかという想像をしないように努めていた。もしかしたら本当に、自分が橘とセックスしたいのではないかと恐れていたからだった。だからそれを口にしてしまった今、橘がどんな顔をするのか絶対に見逃してなるものかと彼の唇をじっと見詰めていて、不意に確かめてしまった。
 こいつと寝たいなんて微塵も思ってはいない。キスがしたいわけではない。性器を擦りつけ合って快楽を共有したいわけでもない。ただ目を逸らされたくないだけだ。

「黒川」

 呆けたように橘が口を動かした。玄関に立ち尽くしたまま水滴を拭いもせず、頭が潰れているのに痙攣を続けているトカゲの下半身を見るような目で黒川を見ていた。黒川は泥だらけの靴のまま後ずさり、土足で上がり框を踏んで、玄関のすぐ脇にある台所の洗い籠の中から突き出ていた包丁を掴んだ。橘の目が滑稽なほど見開かれて、黒川は笑った。笑いながら包丁の柄を両手で握り、喉の下へ斜めに当てた。冷やりとした刃が喉の窪みに引っ掛かって止まった。よく切れる包丁ではない。葱なんかを刻むと皮が残ってしまうような切れ味だ。けれども薄皮一枚切り裂くことくらいは力次第でできるだろう。脅しには充分だし、例え死ねなくても、これでお終いだと思った。お終いだ。涙が出て来た。

「どうかしてるぞ」

 橘は腹が立つほど落ち着いた声で言った。どうかしてることくらい、ここまで来れば誰だって判る。

「馬鹿にするな」

威嚇するつもりが、声は涙で滲んでいた。惨めだ。脅しなんかはどうでもよく、ただ惨めだということで死にたくなった。

「馬鹿になんかしていない。そんなもの、持ち出すのは止せ」

 橘が手を伸ばしたので、黒川はさらに一歩後ずさった。泥靴が床板を踏む音。橘が後ろ手に支えていたドアの把手を離して一歩分の間合いを取り返した。ばたんとドアが閉まり切り、突然に部屋が静まり返った。ひどい雨だったのだと、その静けさに思い出した。

「どうしたんだ一体。何かあったのか」

「どうしてそんなことを言うんだ、」

 橘は口を噤んだ。まだトカゲの轢死体を見るような目をしている。酔いのせいかもしれない。さしずめ自分は斬首台に取り残された首のような顔をしているのだろうか。可笑しかったが、もう一度笑うことはできそうになかった。

「決めろよ、橘」

 こいつと寝たいわけじゃない、そう思うと包丁を突き付けた喉が詰まって、声が出なくなるようだった。

「お前が言うなら、ぼくはちゃんと死んでやるから」

「死ぬなんて言うな」

橘は酔っ払いの生真面目さで靴を脱ぎ、黒川がもう二歩下がって泥靴が畳を踏みかけたところで、その腕を力一杯掴んで引き止めた。死ぬなんて言わなくても俺は。橘がそう言おうとしたのを遮って黒川は包丁を思い切り投げ捨てた。嫌な音を立てて包丁は玄関の方へ跳んで行った。

「そうは思えないね」

雨で濡れた顔を片手で覆って俯くと抱き締められた。ひどい頭痛がした。


作品名:病める道化師 作家名:machiruda