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家族の季節

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夫の秋(二)


 こんなはずではなかった――
 葉子は、離婚届に署名していることが現実のこととは思えなかった。
 
 
 いきなり康夫がとんでもない提案をした時は本当に驚いた。でも、それっきりその話はでなかったので、葉子はもう立ち消えになったとばかり思っていた。
 ところが今日、移住先の役所から書類が届いたのを見て、葉子は愕然とした。そして自分の知らないところで話が進められていることに怒りがこみ上げた。
 私の意向を無視してこんな大事なことを勝手に決めるなんて、横暴以外の何物でもない! ついて行く気などサラサラない。そんなに行きたければ、一人で行けばいい!
 今だって、直人たちがいるから何とかやっていけるのであって、康夫とふたりだけの生活なんておよそ考えられない。いつからこんな夫婦になってしまったのだろう?
 
 
 出会いは職場だった。
 同じフロアーで働いていたので、毎日顔を合わせているうちに言葉を交わすようなった。そして、ごく自然に交際に発展したが、社内恋愛ということで、周りには気づかれないように気をつけた。大恋愛というようなものではなかった。やさしそうだったし、当時は見た目もなかなかだったので、結婚適齢期とも重なり自然と結婚に至った気がする。あの頃は二十五歳を過ぎると会社に居づらい時代だった。
 
 結婚が決まると同時に、葉子は退職して家庭に入った。結婚生活も特にこれといった不満もなく、子どもにも恵まれ、ごく平均的な家庭を築いてきた――はずだった。
 家のことをすべて任せてくれることが、信頼されているようでうれしかったし、専業主婦として当然のことだとも思っていた。
 ところが、そのことに葉子はいつからか疑問を感じるようになった。家庭というものは夫婦ふたりで築いていくものではないだろうか? そして任せられているのではなく、面倒なことを押し付けられているのではないだろうか? と。
 最初は、ほんの小さなシミのような疑問や不満だったが、長い年月をかけてこびりついたカビのように、今ではしっかり心に根を張っていた。
 特に今年の千佳や直人の件で、夫に対する長年に渡って蓄積された不信感や疑問点はもう自分でもごまかしきれなくなっていた。千佳の家庭を案じ、直人の結婚を危惧したつもりの自分たち夫婦こそが、最も危ない状態だったとは何とも皮肉だ。
 本屋へ行き、パソコンを叩いて、葉子は「熟年離婚」について調べ始めた。年金を分割してもらえることを知り、今こそその時だと背中を押されている気がした。結婚といい、離婚といい、どうやら自分たちはタイミングだけには恵まれているらしい。
 
 
 直人たちが外出した休日、葉子は新聞を読んでいる康夫の前に、先日届いた移住先からの郵便物を置いた。
「ああ、これ届いたんだ。母さんも見てみるといい」
 悪びれることもなく封を開け始めた康夫の態度に、葉子はあきれ返って言った。
「私はここを離れるつもりはないと言ったはずですけど!」
「まあ、そう言わずに見るだけでも見てごらん。いい所だぞ」
(話にならない――)
 葉子は手にしていた用紙をその資料の上に広げた。
「な、なんだこれは!!」
 康夫はその離婚届を持って思わず立ち上がった。そこにはもう葉子の署名がされ、捺印もされていた。
「見ての通りです。ひとりで移住でも何でもしてください」
 ふたりは立ったまましばらくお互い見つめ合ったが、参ったというように椅子に掛けると康夫が言った。
「そんなにイヤなのか……」
 葉子も正面の椅子に座って言った。
「財産分与や年金分割については請求させていただきます。私もこの歳で生活していかなければなりませんから。直人たちもいることですからこの家は――」
「待て待て、わかったよ。そんなにイヤならこの話はここまでとしよう」
 それを聞いた葉子は、不思議そうな目で康夫を見つめた。
「あなたはそんな軽い気持ちで移住を考えていたの? どうしてもそこで最期を迎えたいと思ったから決めたんでしょう? それならそうしてください」
「君と別れてまでする気はないよ」
 いつのまにか二人はお父さん母さんではなく、あなた、君と呼び合っていた。
「あなたは今日初めてこの離婚届を見たのでしょうが、私は、あなたが取り寄せた封筒を目にした時に、この用紙が頭に浮かびました。私の気持ちなど、まったく考えていないことがよくわかりましたから」
 康夫はため息をついて詫びた。
「悪かったよ。君がそんなにイヤだとは思わなかったんだよ。それに何も手続きをしたというわけではない。ただ資料を取り寄せただけじゃないか」
 康夫は、ついさっきまで、老後のことは自分が決める権利があると自らを奮い立たせ、女房になんか文句は言わせないと意気込んでいた。しかし、離婚届まで出されては引き下がるほかない。口では、理屈では、女には勝てやしないのだ。
「手続きをするために資料を取り寄せたんでしょう?」
「だからもうやめたと言っているじゃないか!」
 康夫は面倒になってつい声を荒げてしまった。葉子は一呼吸置いて、静かに言った。
「私は気持ちを撤回するつもりはありません。破かれでもしたら困りますのでこれは私が持っていますが、あなたも前向きに考えてください。定年後まで持ち越すと、お互い毎日顔を合わせるのは気まずいでしょうから」
 それだけ言うと、葉子は席を立った。
(いったい何がどうしたというんだ! 移住はやめた、それで終わりのはずではないのか。そうでないということは、移住話に関係なく別れたいということか?)
 康夫は自分がとんでもない軽はずみをしたような気がして後悔したが、それとは関係なく離婚を考えていたとしたら女は怖い、と思った。
 
 熟年離婚……自分たちには無縁だと思っていた。それが今、現実となって突然目の前に現れた。妻は自分の定年を指折り数えて待っていたのだろうか? 康夫はもう何を信じればいいのわからなくなってしまった。

作品名:家族の季節 作家名:鏡湖