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桜の木の下には

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「桜の木の下には」
どんなに想像不可能な空想物語でも、それを聞いたのは現実であるためこの話も私にとっては現実の話なのだろう。

 四月の道にはよく花が咲き、その代表として桜が植え込みに立っている。その光景は永年変わるものでないため、その土地で春を過ごした者ならば、その次の春にはそこに桜が咲くとヒトに話すのだろう。桜の木の特徴など何一つわかっていない人がそう語る様子は少しばかりおかしくも感じるのだが、それが許される空気が春に紛れてやってきた。
 
 桜並木という名詞が似合うこの道路にも例年通り桜が咲いているのだが、ビル群が道路を挟むように咲き乱れるのはどうも圧迫感を感じて春らしい感情を私に運んでは来なかった。桜の木より高い場所からその道路を見れば、灰色は桜に極端に侵食され、不規則に広がる桜と灰色の境界線が明瞭に視界に映るだろう。その境界線が風に揺れるさまは圧迫感とは程遠いものに思えるが、しばし、それを思考すると、忽ち、その奥の出来事を隠しているということで圧迫感がやってくるのだ。つまり、どうあがこうと、この道路には圧迫感が付きまとった。

 私はその道を歩いていたのだが、そういうわけで、戻ってどこか違う道を進むことにした。道がÝ字型に分かれたコンビニ前まで戻り、戻ってきた道とは違う道を選び、先に進んだ。その先に広がる景色は突然現れるといったことはなく、ごく自然に視界を埋め尽くした。そこにも桜が他のものの存在を隠すように大量にあった。灰色の道路がこちらにもあるが、先ほどの物より狭くたまに通る車と接触する危険が常にあった。その道路より少し盛り上がった上の道、名前は忘れたが、道沿いに作られた公園には桜の木と何か名前のわからない気が乱雑に植えられ、そこから垂れた桜の枝が灰色の道路の上を屋根のように包んでいた。やけに優しく思えたその垂れを抱擁のようだと春らしい爽やかな言葉で表すこともできようが、どうもその爽やかな言葉もどこか混沌としたものを孕んでいるように思え、やはり春らしい気分に浸ることはできなかった。

 ここまで読んで、私が何をしようとこの桜並木を歩いているのかわからないだろうが、私もわからなかった。歳のせいか、やることへの目的は問わないようになっていた。意味のない行動に結果として付随してくる目的がなんとも心地よかった。邪魔されない流れに乗ったヨットのようだと昔の私は表していた。
 一つ、他人に説明できうる目的のようなものを挙げるとすれば、ある作家の本を持っていることだろう。春の気温には適さない冬物の服に、その本と最小限の金だけを持っていた。その本はどうも製本された、立派なものではなく、紙きれをぱちんと強引に綴じたものだった。印刷された文字の字体が太陽に透かされ浮かび上がるように私に干渉してきた。その文字の干渉に左右され、行動を決定するのはどうも圧迫感を招きそうだと感じ、歩き疲れた足を休めるためにと、あくまで自身の意志を尊重した椅子を探すという行動をとろうとした。
 公園の道を歩き、なんとか足の疲れを癒そうと椅子を探すが、花見のためか、見つかる椅子はすべて埋まっていた。作られた休憩場所に座れなかった多くの人がなんらかのシートを地面に敷き、桜を見ていた。実に美しい桜の開花を生き生きとした目で見る人が風景に広がる。
 仕方なく、近くにあった小岩に座った。その頭上にも桜が清らかな春を形容して咲き乱れているのだが、私はやはり春らしい気分に浸ることはできなかった。大通りで感じた圧迫感はもうなかったが、その代わりに桜の美しさに不安を感じた。それの元凶は明らかに今手に持っている本のせいで、その著者のせいなのだが、一度読み込まれた空想か現実かわからない文章が私に干渉しているだけで、この不安は確かに私の物であった。
 では、何が不安なのか。ここまで春らしい気温と風が気分を高揚させるはずの空間でここまで心をざらっとさせるものは何なのか。
 その答えを求め、もう一度本を見返した。本が干渉して生まれた不安であるから、実に短いその文の中にたしかに不安の答えが書かれていると思えた。



 通読して気づいたのだが、やはり桜の樹の下には屍体が埋まっている!というものは空想の物で、今、目の前に埋まっていることはないということだけが明白に出現していた。かげろうの屍体までの過程から確かにそう思えなくもないのだが、ここまで綺麗なものの根本に残忍な思考をすることを許すものは現代にはいない。
 一つ、不安の根本を見つけた。頭上に広がる桜畑ではなく、その根元、幹にそれはあった。一年を通して桜の樹に触れる機会がある人間などそう多くはないだろうが、私もその一員であった。春のほんの短い時期だけ桜の樹に関心を示し、他のどの季節では桜の樹の存在すら忘れ、道にたつ、何かの木でしかないと認識する。たったこれだけのことで、桜の樹はその存在に意味を成すということに、人間の意志の強さを感じる。
 しかし、これまた薄い意志のためか、一月もすれば、春を形容していた桜は自らの飛散とともに、春の心地よい風などに形容の主役を譲り、人間の意識の外に消えていくのだ。
 話がそれたが、まあ、そういうことだ。私は春の間は桜の花びらを眺め、そのほかの季節では木がある風景を眺めている。桜の樹をまじまじと見ることはない。日本人の感性を象徴するような美しさが目の前で咲き誇っているというのに、わざわざいつでも見られる桜の幹に見とれるやつはいない。だが、目に留まったのだ。
 その幹はいままで、まじまじと見たことがないからだろうが、初遭遇の形状をしていた。私が記憶している幹とは、表面にはがれやすいコルクのようなものが張り付いているやつか、さらっと撫でられるような無機質感あふれる物の二種類に分類分けされるのだが、こいつはどちらにも属さなかった。まず、それに不安にあった。未知との遭遇は恐怖と希望を同時に運んでくるのだが、この遭遇に希望は現れなかった。
 桜の幹がどういうものか、形容するとしたならば、初夏の公園だろうか。羽化を求めて、自身を守るために進化した毛虫が大量に木の幹、葉、枝に張り付いている!なんとも悍ましく、近寄りがたい。そういうものが桜の木の表面に張り付いていた。
 その毛虫たちは同じ方向に進むかのように並んで張り付いているのだが、その個体を識別できる程度の隙間を空けて並ぶ姿がまた不気味で私に不安をもたらしているようだった。規則正しくはないが、どこか規則性をもっているかのようなその配列に何かの意図を想像し、その模様に監視され続けていることを不安に思っているのだろう。その不気味さも不安要素の一つであった。
 その毛虫がそのうち実態をもって降り落ちてくるのではないかと突然思った。桜の花びらの飛散に紛れてその汚い色の塊が落ちてくる様子を想像すると、なんとも気が狂いそうであった。別段、虫が苦手というわけではないが、実害をもたらす毛虫の落下は私の感情ではなく、反射運動に信号を与え、心はそれに影響され声を上げるのあろう。そのいつくるかわからない未来にも不安を感じていた。
作品名:桜の木の下には 作家名:晴(ハル)