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小説を書く―かけがえのない時間

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 実在の歴史にも「思悼世子事件」や「明成皇后」など、興味の尽きない出来事がありますし、いつか妖婦と呼ばれるチャン・ヒビンを主人公にして小説を描いてみたいという気持ちもあります。私が思うチャン・ヒビンというのは「とても不器用で、粛宗を愛する気持ちが強かった」というイメージなので、そういう女性を描いてみたい。
 単なる悪女だけではないヒビンを描いてみたいです。
 久しぶりに韓流雑貨店に足を踏み入れ、通っていた頃を懐かしく思い出しました。
 今は通販でも韓国の商品を手軽に買えることができるようになりました。確かに便利なもので、私自身よく利用しますが、やはり、「韓国らしさ」を感じるには品物に触れるだけでは物足りません。
 そのお店で、韓国のものに囲まれていると、やはり日本ではない場所のような気がします。韓国の空気や風といったものを五感で感じられます。
 できるならば、いつまでも続いていって欲しいなと思いつつ、ご主人の笑顔に見送られて後にしました。
  


『夢を食べて生きている』

 少し前のことだ。アマゾンのとある書籍の読者レビューに、こんなことを書いていた人がいた。
―夢を食って生きています。
 中年の女性の自己紹介らしい。その瞬間、まさに言い得て妙な表現だと思った。何故なら、私自身、その「夢を食べて生きている」人種だからである。
 妄想することが楽しい、生き甲斐といえば、何か危ない人のように思われるかもしれない。しかし、その妄想はせいぜいが自分の頭の中だけで楽しむものだし、高じれば小説のネタになる。だから、他人様に迷惑をかけたことはない。
 私の周囲には現実的な人が多い。まあ、身内といっておこう。
―何で他人のことをあれこれと詮索するのか、理解できない。
 よく言われる。
 誤解して頂きたいくないので断っておくが、別に隣家を覗いたり、気になる通行人の跡をつけたりとストーカーまがいのことをしているわけではない。ただ電車に乗った時、向かいに座った美しい女性がいたとしたら、
―あの人は、何歳で、どんな仕事をしていて、、、
 と、色々と想像してみるだけだ。いや、これだけでも十分アアブナイと言われれば、そうなのかもしれないが―笑
 だが、恐らく、私からこういう妄想を取ってしまったら、小説なんか書かないだろうと自分では思う。
 他の書き手さんはどうなのかは判らないけれど、少なくとも、私の場合は人にせよ物にせよ、その対象に対して抱く興味が「書く」源になっているのだと考えている。
 いつだったか、有名作家がラジオ番組でインタビューを受けていた時、こんなことを言っていた。
―私は何でも興味を持って、すぐにあれこれと想像してしまうんです。
 話を聞いていると、殆ど私自身の「妄想」と同じようなものだった。その瞬間、ああ、私だけではないんだと安心したのを憶えている。
 プロにせよアマチュアにせよ、やはり似たようなものなのだろうか。
 小説、エッセイ関係なく、やはり物を書く人にとって、「想像力」は大切だと思う。いつもアンテナを張り巡らせていて、心の眼を澄ませた状態でいれば、色々なものが見えてくる。
 例えば、ずっと家の中にいてでさえ、その気になれば「想像力」は働かせることができるだろう。読書は特にどこに行かなくても、自宅で気軽にできる「心の旅」だ。本の扉を開くだけで、読者は見知らぬ異国にも、自分が生きる現代からはるかに時を隔てた過去にも行けるのである。
 現実的な人は「詮索」を好まず、他人や物事についてあれこれと考えるのは馬鹿げているし、意味がないと言う。だが、私はどうしても、その考えには納得ができない。
 道端の石ころにでさえ興味を持てるということは、何と素敵なことではないだろうか。妄想は何に対しても興味を持つことから始まる。
 何にでも興味を持とうとする人には、興味を持てない人より世界は数倍も広く、この世の中は光り輝く数々の出来事に彩られているのである。
 もちろん、人それぞれだから、現実志向の人が悪いというわけではない。
 ただ、「夢を食べて」生きているのは、けして不幸なことでも罪悪でもなく、むしろ素敵なことだと最近は開き直っている。


☆「小さな一歩」に意味がある

  一週間前、何を思ったか、とある小説サイトに新規登録した。とはいっても、何も初めての場所ではない。一年前まで在籍していたサイトである。本人は「退会」もしくは「卒業」したつもりでいるが、実はアカウントはそのまま残している。
 サイトを止められる方の場合、大きく二通りに分かれる。前者はアカウントも作品もすべて丸ごと削除する方法。これは自分の痕跡をすべて文字通り跡形なく消す。ある意味では潔くて良いと思う。
 後者はアカウントも作品も残して、急に更新が途絶える場合。これも結構、どのサイトでもあることだと思う。人それぞれに考え方があるから、どちらが良い悪いではないと思う。また、削除する行為そのものが面倒くさくて放置している人というのも実際、少なくはないのではないか。
 一年前、とりあえず、小説サイトから身を引く決意をした時、私は迷いなくアカウントは残す道を選んだ。私的にはそのサイトで自分なりに頑張った足跡のようなものをすべて無に帰してしまうのは耐え難かった。また、頂いたコメント、レビューなども一緒に消えてしまうのも忍びない。
 人というのはおかしなもので、時々は過去を振り返りたくなるものだ。そういう時、ふっとサイトを覗いてみたいという想いもあった。
 サイトから身を引いた理由は色々ある。対外的なことが理由だと思われがちかもしれないが、実はそうではなかった。もちろん、間接的に―決断するまでの過程にそれがなかったとはいえないが、最終的に決断した理由は、自分自身の気持ちだった。
 簡単にいえば、小説を書く楽しみをいつしか忘れかけていたからだ。言い換えれば、初心を忘れていたともいえる。
 何故、小説を書くのか? それは、とてもシンプルな問題だったはずだ。書きたいから、書いた作品を一人でもたくさんの人に読んで欲しいから。
 ただそれだけの想いで小説サイトに登録し、作品を発表するのが初志であった。なのに、いつしか私はその初心を忘れてしまっていた。目先のことだけにしか囚われなくなり、他人を羨んだり妬んだりする気持ちが生まれた。
 そして、そういう自分を自覚しているから、そんな自分が自分で嫌になる。そういう悪循環の繰り返しが続くようになった。
 たくさんの人は「気にしなければ良い」と言う。確かに、そのとおりだ。気にする自分が悪い。そのこともよく心得ていた。だが、熾烈な競争社会ともいえる場所に身を置いている限り、その悪循環から自分は抜け出せないのではと考えるようになった。
 だが、作品を書いている限りは読んで欲しい。その気持ちも強い。小説を読んで貰うなら、やはり小説サイトにいるのがいちばんであることも判っていた。
 毎日、葛藤の連続だった。調子の良いときは結果が数字となって現れるのは励みになるが、悪いときはモチベーションを維持することさえ難しくなる。
 たくさんの人に読んで貰えるというメリットがある反面、「諸刃の剣」でもあるといえた。