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うすべに~写紅桜恋絵姿様(さくらにうつすこいのえすがた)~

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 と立ち上がり、来た廊下を戻ってゆくところだった。
「あ、いえ、お構いなく」
 香桜留はお津多の背中に声をかけ、再び絵に向き直った。
「どうして?素敵な絵なのに」
 恭介の顔を覗き込む。しかし恭介は首を振り、両手を激しく震わせながら、紙をぐしゃぐしゃに握りつぶした。香桜留が止めるのも無視して、絵を放り捨てる。そのまま、恭介は髪をかきむしった。
「描こうとすると、震えるんだ。この2、3日は、薬を飲んでも痛みが取れない。医者は気長にというが、いつになったらまともに描けるようになるのか、・・・」
 香桜留は恭介の震える手に、自分の手を重ねた。
「焦ってはだめよ。いい時も、悪いときも、いろいろあるわ。お医者様の言うとおりにしていれば、きっと大丈夫よ」
「そういうものかな」
「そういうものよ」
 そこへ、お津多がお茶と羊羹を運んできた。
「じゃあ、あたしは店の方にいるから、何かあったら呼んでちょうだいね。今日は内(うち)の人、寄合に行っていて留守なのよ」
「はい、ありがとうございます」
 お津多は恭介の兄にあたる夫、壱也(いちや)と、薬種屋を営んでいた。ここは店や夫婦の住居のある母屋とひと続きになった離れである。
 壱也、恭介兄弟の父にあたる薬種屋の先代、月岡政三(つきおかまさぞう)は10年前に亡くなったが、香桜留の父である勘右衛門(かんえもん)とは旧知の仲で、政三の死後、まだ若かった兄弟を何かと気にかけていた。そして将来的には、弟の恭介に香桜留を嫁がせるつもりで、香桜留が17歳のときに婚約を交わした。恭介は22歳だった。
 保守的な性格の兄・壱也と違い、7つ下の弟恭介は幼い頃から自由を愛し、縛られることを何より嫌った。家出を繰り返し、しばしば、父や兄の手を焼かせていたが、その一方で絵に尋常ではないほどの興味を持ち、食事もとらず何時間でも絵に没頭する子供だった。既に10歳頃にはその画才は誰もが認めるところとなっており、幸い兄が嫁を迎え薬種屋を継ぐことが決まっていたから、父政三は恭介が絵師に弟子入りすることを許した。恭介は13歳で家を出、絵師の家に住み込みで修行を始めた。19歳の頃に描いた役者の大首絵が高く評価され、以後、役者絵を描かせたら比類なき天才として、たちまちその名は知れ渡っていった。
 そんな不動の地位を築き上げた人気絵師に悲劇が襲ったのは3年前。絵師の命とも言える両手に、神経の病を患ったのだ。懸命な治療の甲斐もあって多少動くようにはなったが、痛みや震えが残り、絵師としての仕事は不可能となった。生涯の全てを絵に捧げる覚悟で絵師となり、地位を確立した恭介にとって、絵を奪われることは人生そのものを奪われることに等しかった。次第に精神が不安定となり、暴れて家族に暴力を振るうようになっていった。そこで、家族の話し合いにより、生家の離れにいわゆる座敷牢を設け、そこに閉じ込められることとなったのだ。現在は落ち着いてきているが、作画に没頭できるこのひっそりとした離れは恭介にとって都合が良いらしく、そのままこの格子のある部屋で療養を続けていた。香桜留との縁談は宙に浮いたままとなっていたが、香桜留の恭介を思う気持ちは変わらず、今でも足しげく見舞いに通っていた。
「ねえ、恭介さん」
 香桜留は恭介の顔を覗き込んだ。恭介が筆を止めて、香桜留を見つめる。
「じきに、桜が咲くわ。そうしたら、一緒に見に行きましょう」
 今日、恭介の家に来る途中に通った、浅草神社の桜の老木。恭介がまだ元気だった頃は、二人でよく境内を散策したものだった。
 昔のように、暴れるほど不安定になることは少なくなったものの、外出となると家族が二の足を踏むので、ここに入って以来、恭介はほとんど外に出ることがなかった。それを知っているから、香桜留は今年こそは、とここに来るたびに思うのだ。家の中にばかりいるせいで、青白くやつれた恭介を見るのは何より辛かった。今日通ったときは、まだ蕾は硬かった。あと、どのくらいで咲くだろうか・・・と香桜留が考えていると、
「香桜留ちゃん」
 と、背後から呼ぶ声があった。振り返ると、格子の外に恭介の兄、壱也が立っていた。店の前掛けをして、地味な色合いの着物を着ている。すらりと長身の恭介とは違い、がっちりした体つきで、四角い顔だちに太くきりりとした眉が目立つ、実直そうな印象の男だ。
「そろそろ帰らねえと、お父っつあんが心配するぜ」
 壱也の声に重なるように、ちょうど、浅草寺の鐘が鳴った。文机の前に穿たれた小さな窓は、既に黄昏の光を映していた。香桜留は父の怒鳴る顔を思い出し、さりとてもう少し恭介といたい気持ちもあり、ためらいながらも立ち上がった。
「帰るのかい」
 恭介は残念そうだ。
「ごめんなさい、恭介さん。また来るわ」
 香桜留は恭介を振り返り振り返り、格子の部屋を出て行った。





 月岡家を辞し、外へ出ると、辺りは既にうっすらと夜の色を漂わせ始めていた。香桜留は来た道を足早に戻って行った。浅草神社の境内を抜けるとき、薄紫色の空に伸びる桜の枝が黒々と風に震えているのが目に入った。
 江戸三座のひとつ、「市村座(いちむらざ)」のななめ向かいに、「柳(やな)しげ」という看板を掲げた芝居茶屋がある。芝居茶屋は芝居の合間に飲食をしたり、役者と贔屓客が宴会の場として使ったりする店のことである。この芝居茶屋が、香桜留の生家だった。通りに面した表側は、1階と2階の間にずらりと提灯が並び、夜闇を煌々と照らし出している。2階からは賑やかな声が漏れ聞こえてきた。香桜留は店の裏手に回り、勝手口を開けて中に入った。
「お嬢さん、お帰りなさい」
 祖父の代からいる使用人の銀平(ぎんぺい)が出迎えてくれた。お仕着せの着物に、店の名を染め抜いた前掛け。白髪頭はかなり禿げ上がっているが、がっしりした体つきで腰もしゃんと伸びている。
「早速で申し訳ないですが、旦那様が、すぐお部屋に来るようにと」
 何も悪いことをしたわけでもないのに、銀平はひどく申し訳なさそうな表情で付け加えた。香桜留が戻ったら、すぐに部屋に来させるように、と勘右衛門から言いつかったのだろう。用件は大体分かっているから、香桜留は嫌な気持ちでいっぱいになった。
 案の定、父の部屋の襖を開けると、腕組みをし、これ以上はないほど渋い顔つきをした父が床の間を背に座っていた。傍らに母お咲(さき)がいる。
「こんな時間まで、どこに行っていたんだ」
 開口一番、低く押し殺したような声で、父は言った。怒鳴るわけではない、この噴火寸前の怒りを押し込めたような話し方が、香桜留は子供の頃からひどく苦手だった。
「すみません。恭介さんのお見舞いです」
 香桜留は俯いたまま、勘右衛門の向かいに座った。勘右衛門は香桜留の答えを聞くと、綺麗に整えた髭の下の唇を不快そうに歪めた。
「やはりそうか」
 ふう、と勘右衛門が息を吐き出した。香桜留は膝の上で握りしめた両手をぎゅっと固くして、父の雷が落ちるのを覚悟した。しかし、父は怒鳴ることはなく、冷ややかな口調で続けた。
「前々から言っておこうと思っておったが、儂は、あの気狂いにお前をやる気はないからな」
「え・・・」