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ロシア人形
ロシア人形
novelistID. 62063
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後悔のしない人生を。2

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貴方は大きな後悔を経験したことがあるだろうか。
前作を読んでくれた方には感謝します。
今回は前作の続きです。

祖母が亡くなり、その1週間後ぐらいに私の自動車が納車した。
それから、祖母の四十九日の旅に買い物は私の車で行っていた。
父は普段仕事をしていて母は専業主婦をしていた。
私が車を使えるようになり、祖母の家の同時などを手伝った。
祖母の家の掃除などが終わり、羽を伸ばしてドライブ等に行くようになった。
私は運転するのが楽しかったし、何より親孝行ができて嬉しかったのだ。
納車してから車が好きになり、洗車しては母に「奇麗になった!今までで一番の出来だ!」など言って喜んだ。
8月ごろ私は学校の友人と海に行く約束をした、そのあたりから母の体調が少し良くないように思えた。
遠出する喜びをしった私は友達と母を連れて、洞爺湖(北海道一の湖)に行くことにした。母と友達でのドライブはすごく楽しかった。
約半日を車の中で過ごし、楽しい一日だった。
その後は、買い物などに付き合って何気ない生活を送っていた。
母は心なしか少し弱っているようにも見えた。
少し経ち、私は学校最後の最大イベントの見学旅行を楽しみにしていた。 荷物をまとめたりするのが凄く楽しかった。
10月下旬、私は本州にわたった。
見学旅行中は何処に行くかなどを母に逐一メールしていた。
見学旅行から帰ると母がぐったりしている、見学旅行に行く前から少し体調良くないようにも見えていたが、風邪か何かだろうと思い、
無視していた。
11月12日、学校にいるとき姉からメールが来た。
「母さんすごく辛そうなのがわからないの?」と連絡が来たのだ、確かに辛そうであったが病院に行くことは拒んでいた。
11月13日さすがに母も説得に応じ病院に行くことになった。
最初に行ったのは札幌の少し大きな病院で、約5時間ほど検査した後さらに遠くの片道2時間ぐらいの場所の病院を紹介された。
2時間ほどかけて到着した病院。紹介状などを持ち受付に向かう、するとすぐに診察を進められ検査などをした。
6時間を過ぎもう外は暗かった。18時ぐらいだったと思う、母は即入院で必要なものは後々持ってくるようにした。
3日ほど検査が続き、結果が分かった。 祖母と同じ肺癌だった、それもステージ4でかなり危ない状態だったそうだ。
母は呼吸が苦しく、喋ることも出来なかった。 手術で痰をとるチューブを入れて呼吸は楽になったそうだ。
その後会話はホワイトボードなどを利用して行っていた。
その時私はインターンで職場の研修をしていた、後にその企業からは不合格と説明された。
そのインターンでもらった給与で私はほしかったパソコンのキーボードを買った。
北海道に住んでいるので2日はかかった。
12月11日に届き、すごく嬉しい気持ちになった。
12月12日学校から帰ると姉からの電話、再ダイヤルすると母が危篤状態にあるとの連絡だった。
最初はそんな馬鹿なという気持ちだった。
私は姉を車に乗せ病院へと向かった。 電話の内容は本当だった。私が着くころには親戚はほぼ病室に集まっていた。
約午前1時だったと思う。 自発呼吸を手伝う機械が仰々しく置いてあった。 全く目を開けないし、何の反応もない。
2時ごろになり、さすがに親戚の人や父や姉は一度帰った。 私だけ母の様子を見ていつでも連絡できるようにした。
3時頃、心電図の数値がどんどん下がっていくのが見えた、もうダメなんだとそこで私は覚悟をした。
その30分後、母は息を引き取った。 息を引き取る瞬間はこんなにも虚しいものかと今でも思い出す。
すぐに親戚に連絡をし、私は家に帰宅した。
 その後葬式などを行った。
母がなくなり3か月がたった今、母がやっていた家事などを自分たちがやって母の辛さが分かった気がする。
私が4か月 5か月早く病院に連れて行ったのであれば助かっていたかもしれないとすごく後悔している。
 このエッセイ?を読んでいる方で母や親戚が体調を崩していて病院に行ってない場合は早く行くように促してください。
自分が大きな後悔をする前に…