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薄紅の

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「すいませんね、旦那。今日は姐さん、どうしても先客のお座敷が抜けられないそうなんで……」
 そう言いながら頭を下げ、心底申し訳なさそうな顔をする芳峰にひらひらと手を振って見せ、貫太郎は笑顔を覗かせた。
「いいさいいさ。さっき女将も詫びに来た。どっかの藩から上がってきた殿様だかご家老だかの御一行ってぇんなら、この店一番の上玉出さにゃあ『鼓酔閣』の名折れにならぁな」
 女将が携えてきた、まだ墨の匂いの残る幸若の手紙にも今宵の無聊を詫びる旨が流麗な墨跡も瑞々しく認められていた。他の客なら一瞬でも顔を出してご機嫌を取らねば煩いが、貫太郎ならばこちらも顔を出さずとも判ってくれる、と甘えた内容だった。仕方ねぇな、と承諾してしまうところが甘ぇのかな、と苦笑が漏れた。
 庭を挟んだ向こうからは上機嫌な笑い声や三味線の音が漏れ聞こえてくる。さぞかし盛況なのだろうと思うと、それすらも今宵の良い肴になりそうだとさえ感じられた。浮世の憂さを天女に晴らして貰おうとここにやってくるのは、侍も町人も同じだ。ただ、通行手形よりも世知辛い、人の欲を吸ってずっしりと重い持つべきものを持っていないとその天女の許へは辿り着けない仕組みになっていると言うだけで。
 脇息に凭れかかり、漆塗りの盃を手に取るとすかさず酒が注がれる。すまねぇな、と受けてそれを一気に呷る。それだけで、今日一日の澱のような苦労も胃の腑の奥へ押し流されるというものだ。
「で、幸若に次ぐ人気者の芳峰様とあろうお方がこんなところで油売ってていいのかい」
 盃を弄びながらにやりとして見せると、
「あたしは姐さんからお詫び方々旦那のお相手を仰せつかりました故。もっとも、旦那にしてみりゃ拍子抜けもいいところでしょうけどね」
 つい、と拗ねて見せるところも幸若の妹分らしい振る舞いだった。
「誰もそんなこと言っちゃいねぇよ。まだお前さんなら顔馴染みだからな。勝手も判らねぇ初顔あてがわれるよりゃ、よっぽど有難ぇ」
 そう言うと、芳峰は色白の肌に少し朱を刷き、嬉しそうに微笑んだ。
この貫太郎という男は日本橋で酒屋を営む神崎屋の旦那で、鼓酔閣一番の稼ぎ頭・幸若の客である。勿論、鼓酔閣へ酒を卸しているのも神崎屋であるし、店を継ぐ前からの長い付き合いであった。
 生まれたときから酒の匂いのする家で育った貫太郎は、呑み方というものを生まれもって知っていた。度を過ぎて醜態を晒すようなことは一度とてなく、酔っ払って女に無理強いをしたこともない。酒を大事にしているからこそ、自分に丁度良い塩梅というものを判って酒精を摂るように身体が出来上がっている。とろとろと酒を呑み、ちまちまと肴をつつく。その合間にほろりほろりとよしなしごとを話しては笑ったりしながらゆるりと時を過ごす。女たちにしても貫太郎を相手にしているときは苦界の辛さをひとときでもうすめてくれるような時間を持つことが出来る。粋な、と言うよりは女たちが思わず安心してしまう。そんな男だった。
 今宵も、自分の贔屓でなくとも帰らずに客として遊んでいってくれるというのだから。
「――そうだ、芳峰、お前さんを独り占めしてる今のうちに一指し、舞ってくれないか」
「はい」
 そっと答えた芳峰は酌をしていた手を止め、その場で指を点いて一礼してから音もなく立ち上がった。
 扇子をはらりと押し開き、着物の袖をふわりと閃かせた。彼女の特技でもある舞は、この店でも一、二を争う腕前であった。
 どちらかと言えば気の強い幸若と違っておとなしいきらいのある芳峰だが、ひとたび舞わせれば静かに咲く花の如く、見る者を魅了する。
 貫太郎の打つ手に合わせて、芳峰は仄かな笑みを紅い唇の端にのぼらせたまま、はらりはらりと優美な動きを繰り出していく……。
 いつもは賑やかに三味線や鼓に合わせて舞っているのが、今日は二人だけの座敷である。衣擦れや白い足袋が畳を擦る音しか聞こえない。それが趣きを異にして、より一層彼女の舞いが映えるような気がした。
 やがて、扇をぱちりと鳴らし、再び膝をついて頭を下げる芳峰。いつの間にか吸い込まれるように見入っていた貫太郎は我に返り、惜しげもない拍手を贈った。
「いやぁ、贅沢だねぇ。嬉しいこった」
「ありがとうございます」
 僅かに頬を赤く染めているのは、身体を動かした所為だけなのだろうか。ちいさく呟く芳峰は、少し間を置いてから顔を上げ、再び貫太郎の酌をするべく傍ににじり寄った。


 ほろほろと酒を傾けて半刻程経った頃だろうか。
「旦那、あたしじゃ、駄目ですか……?」
 唐突に、芳峰が口火を切った。
「芳峰?」
 驚いた貫太郎が芳峰を見返すと、彼女は切羽詰ったように言い縋ってくる。
「旦那の贔屓は姐さんだってことは、重々のこと承知です。でも……」
「ちょ、ちょい待ち芳峰っ。だから、私は帰るって」
 貫太郎とてそのようなつもりで長居した訳ではなかった。いつものように過ごし、今宵は幸若もいないことだしそろそろ帰ろうかと思っていた矢先のことだ。
 ずい、と芳峰がまた貫太郎に詰め寄った。夜の湖面の水が震えるように、瞳を潤ませながら。
「そんな、つれないことを言わないでください旦那。あたしは……あたしは、ずっと、旦那に……」
 懸想、してたんです。
 流石に直視出来なかったのか視線を落とし、消え入りそうな声で吐息混じりに囁いた。
「芳峰……」
 すっかり酔いの醒めた貫太郎はそれきり、口を阿呆のようにぱくぱくさせている。 
 いつも幸若の後ろで控えめに笑っていた芳峰が、息遣いまでも感じられる程にまで迫り、貫太郎のすぐ傍で抱いてくれと懇願している。貫太郎とて機微も知らぬ青臭い若造ではないが、予想もつかなかった事態にどうすることも出来ない。思わず接近された分だけ後じさると、背にしていた柱にぶつかった。ごくりと息を呑む。こんな芳峰はまるで、初めて見る女のようだ。
「こんな、ことをして幸若に……」
 何よりも効き目のある筈の幸若の名を出してみても、
「姐さんは、今日はあたしに任せたっておっしゃってます」
 こんなことまで込みでか、と問い質しそうになるのを、喉奥で呑み込む。
「世話になってる姐さんのお客を横取りしようなんてつもりはありません。でも、いつもこの頃合になって旦那と別れるのが、辛かったんです」
 己の好きな男が、他の女と床に入る。それはどんなにか切ないことだったろう。
 勿論芳峰にも贔屓の客はいる。その客に抱かれながら、あるいは独り寝の夜を彷徨いながら思うのは。貫太郎には到底想像することも出来ない。
 す、と襟元に細い指が掛かる。そのままそろりと押し下げて、
「旦那ぁ……」
 と甘えた声でねだる。芳峰がそんな声を出すなぞ、ついぞ知らなかった。
 醒めたと思っていた酒精が、身体の奥でまだ燻っているのかも知れない。後頭部がくらりとした。
心地の良い酩酊が軽やかな目眩となって貫太郎を襲う。
「お願いです。こんな無茶を言うのは最初で最後ですから……」
 ――女にここまで言わせておいて、袖にする程貫太郎も無粋な男ではない。
「こわーい姐御に、怒られちまうかな」
 言いながら、寄り掛かる芳峰の背をそっと自分の方へ押すようにして抱き寄せた。
作品名:薄紅の 作家名:紅染響