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おにごっこ

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 縮こまって動かない少年の姿を、小さな獣の影がじっと見つめていた。

 家に着くと、美奈が傘を差して、もう片方の手にそれより一回り小さい傘を持って、家の前の道に立っていた。
「あ、玲奈。おかえり」
「ただいま。どこか行くの?」
「玲奈のこと迎えに行こうとしてたんだよ。雨が強くなってきたから」
 その時初めて、玲奈は自分が相当濡れてしまっていることに気づいた。前髪から雫が垂れるほどだ。目に入りそうになる雨を、軽く手でぬぐった。
「さあ早く体ふかないと、風邪ひいちゃうよ」
 美奈がそう言うのと、その声が玲奈の背後から聞こえたのはほぼ同時だった。
『おにごっこしよう』
 玲奈は振り返った。雨は降りしきっていたが、そこにいたのは確かにあの少年だった。しかし今は鬼の面ではなく、きつねの顔をかたどったような面を付けている。
「玲奈?」
 美奈に少年の姿は見えていないようだ。何もない方へ振り返り動かない玲奈を、訝しげに見つめている。
「君が鬼だよ」
 そう言いながら少年がこちらにきつねの面をよこした。玲奈は反射的にそれを受け取る。受け取ったのを確かめると、少年は向こうへ走っていってしまった。
 玲奈はお面をぎゅっとその手に握り、少年を追いかけ走り出した。美奈の呼ぶ声が聞こえた気がしたが、止まらずに走り続けた。

 いつも三人でかくれんぼをして遊んでいる公園まで走ってきたところで、玲奈は少年を見失ってしまった。
 すべり台に寄りかかり息を整えていると、先程玲奈が入ってきた公園の入り口に少年が立っていた。
『こっちだよ』
 小さく手招きをして、またすぐ走り出してしまう。玲奈は慌てて後を追った。

 もうどれだけの時間が経ったのかもわからないほど、玲奈は走り続けていた。顔も体中も雨でずぶ濡れで、意味もないので顔をぬぐうこともやめてしまった。ただ前を走る小さな背中を追い続けた。
 突然、その小さな背中が立ち止まった。まるで玲奈がやってくるのを待っているかのように、振り返ってこちらを見ている。
 走り続けてさすがに限界がきていたので、少年が立ち止まったことにほっと息を吐くと、玲奈は走る速度を少しだけ落とした。
 その直後、玲奈の頭上で雷が鳴った。雷が鳴ったと思った。
 音に驚き立ち止まってしまったことを玲奈は後悔した。大きな堅い岩や土砂が群れを成して、まるで猛獣のように玲奈に襲いくる。止まってしまった足は、恐怖のせいで動かない。
 もうだめだ、と目を閉じた。次の瞬間玲奈は宙に浮いた。

 閉じた瞳の中で玲奈は震えていた。空気を思い切り体内に取り込む。息が吸える。生きている。
 堅く閉じていた目をゆっくりと開いた。吸い込んだ息を吐いた。
 まず目に入ったのは、土砂の山だった。玲奈が思い描いていた最悪の未来では、自分はあの下にいたのだ。
 土砂の向こう側、少し離れたところに、少年が立っていた。玲奈が強く握っていたお面はいつの間にはその手になく、少年の顔にかぶせられていた。
 狐の面をした少年が、くるりときれいな弧を描く。すると少年の姿が消えて、一匹の子狐が現れた。愉快そうにこちらを伺い、一つ鳴いて、茂みの方へ去っていってしまった。
 玲奈は静かに理解して、その時初めて誰かに抱きしめられていることに気づいた。柔らかい栗色の髪が頬に触れる。確かに、頬に触れていた。
 確かめたわけではないけれど、霊に触れることはできないと、玲奈は思っていた。けれど確かに触れていて、玲奈はあの鬼の面を身に付けていた少年に抱きしめられていたのだ。
『お友達、ケガさせてごめんなさい……』
 雨の音にかき消されてしまいそうな微かな声が耳元で聞こえた。
『……雨の日は外に出ちゃいけないって、お母さん言ってたのに。……ごめんなさい、ごめんなさい』
 声は震えていた。
 震えた声が、玲奈の鼓膜を振るわせた。濡れた頬に新しい雫が落ちて染み込んでいくように、触れ合った場所から広がって、体の中を満たした。
「大丈夫だと思うよ」
 玲奈の声に反応して、少年は抱きしめていた体を少し離し、鬼の顔で玲奈を見た。
「約束破ったら怒られると思うけど、私のお母さんも怒るから。でもお母さんは、許してくれるよ」
 涙のせいで震えそうになる声で、玲奈は必死に言葉をつむいだ。
「お母さんは、幸人を褒めてくれるよ。大丈夫だよ」
 雨は勢いを弱めていた。冷たくなった体に、幸人のぬくもりが伝わってこないことがなんだか悲しくて、玲奈の涙は止まらなかった。
 幸人は玲奈から体を離し、立ち上がった。お面を外して、それを玲奈に差し出す。幸人の顔が見たくて、ぼやけてしまうのが嫌で、玲奈は涙をぬぐった。
『おにごっこしよう』
 耳になじんだ、優しい響きだった。
『君が鬼だよ』
 先程、偽りの彼から受け取った時のように、お面をしっかりと握りしめる。
 玲奈が立ち上がったのを確かめてから、幸人は走り出した。

 それはとても、とてもとても長い夢の中にいるような現実だった。走る幸人の足は決して速いものではないのに、なかなかその背に触れることができない。届くと思って伸ばした手は、宙をかいただけだった。
 見えるのは幸人の背中だけで、聞こえるのは二人の息づかいだけ。どこを走っているのかはわからない。
 息はあがっていた。けれど疲れてはいなかった。今ならどこまでも走って行けそうな、海の上も走れそうな気がした。
 ずっと走っていたいとも思った。
 ふと、幸人の体が少しだけ近づいたような気がして、玲奈は手を伸ばした。指の先が彼の髪をかすめる。
「つかまえ」
 最後の一文字は、巻き上がる風の音にかき消された。服も髪もまつげさえも、吹き上げた温かい風に持ち上げられて、そのまま飛んでいってしまうかと思うほどの衝撃だった。
 風が止むと同時に、玲奈は咄嗟に閉じてしまっていた目を開いた。
 少年の姿はどこにもなかった。慣れ親しんだ公園の真ん中に、玲奈は一人立っていた。
 空が青白く光っている。雨はもうすぐ止むだろう。

 昨日の雨が嘘のように、美しい青空が広がっていた。雨雲は姿を消して、代わりに真っ白な雲が空の青を切り取っている。
 玲奈と志保里と加奈子は、いつもの公園にいた。加奈子の足の傷はまだ完全には癒えていなかったが、我慢できずに飛び出してきたらしい。泣いてしまったことももう気にしていないようだ。
「じゃーんけん」
「あ!」
 かくれんぼの鬼を決めるためにじゃんけんをしようとした二人を見て、玲奈が声をあげた。
「どうしたの? れなちゃん」
 志保里がたずねる。
「うん、あのね」
 空は晴れていたが、雨に似たものが落ちてきた。それが小指の先から広がっていって、掴めるような気がして、ぎゅっと握った。
「おにごっこしない?」
 少女の楽しげな声、不満そうな声が、青空に響き渡った。
作品名:おにごっこ 作家名:ぱん