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銀の錬時術師と黒い狼_魔の島

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「このボートに乗ってるのはわたしとあなただけですよ? で、あなたはわたしの護衛士です。主人であるわたしの命令に従う義務があります」
「なんでこんなときにかぎって主人風を吹かせる? おまえも漕げ。錬時術を使えば簡単だろうが」
「こんな単純作業にわたしの錬時術を使うわけにはいきません」
「だったら手で漕げよ。おれもおまえも腕の数は二本だぜ?」
「わたしがそのオールを使って漕いだとして、ボートがまっすぐに進むと思いますか?」
 リンは笑顔で問題の核心をついた。レギウスは黙りこむ。旧帝国の皇女という環境で育ったせいなのか、リンはときどき非常識なまでに不器用なことがある。そうした事実をなまじ知っているだけに、うまい反論が思いつかなかった。
 レギウス、長嘆息。
 しかたなく、ボートの船尾に腰を据えて黙々とオールを操る。ここまでふたりを運んできた船から離れて、ボートは前方の灰色の壁へと漕ぎだした。
 背後を振り返ると、ダガス船長が船縁の手すりにつかまり、陰気な眼差しでこちらをながめていた。リンとレギウスが帰ってくるまでここで待つよう、船長にはきつく言い渡しているが、その約束を守るのかどうかは心もとなかった。ふたりの姿が見えなくなったら、さっさと船首を西へ向けてこの海域を立ち去るかもしれない。
 レギウスが歯をむいて威嚇すると、多少は後ろめたい気持ちがあるのか、ダガス船長はつと目をそらした。
 レギウスは空を見上げる。太陽の位置を確認した。金色に輝く円盤はすでに南の空を昇りつめ、いまや天頂から徐々にすべり落ちようとしていた。
(日食が始まるのが黄の刻だとすると、あと三時間もないな……)
 しだいに大きくなってくる灰色の壁を見据えつつ、レギウスは胸のうちでつぶやく。
 リンは視線をひたと〈嵐の島〉に向けていた。彼女がなにを考えているのか、その横顔からはうかがい知れない。
 どこまでも高く、澄みきった青い空に、真っ白な雲がまるで爪で引っかいた傷のように細くたなびいている。
 風はほとんどない。海鳥の鳴き声も聞こえなかった。小さなボートの船腹をたたく波の音だけがレギウスの耳底(じてい)を満たしていた。
 リンの指示でボートの向きを変える。ぎらつく陽射しを浴びて輝く灰色の壁が、目の前でゆっくりと渦を巻いていた。遠目には汚れた霧のようにも見えるが、こうして近くでながめると高山の山肌にしがみついた残雪に似ていなくもない。手を伸ばせば触れられそうな質感が、その灰色の壁には備わっていた。
 灰色の壁は、〈嵐の島〉を取り巻く錬時術の結界が目に見えるかたちとなって固着したものだ。結界の術式は二百年前の錬時術師たちが生みだしたものだが、ひとの一生より長い年月が経ってもなお、いっこうに術力を減じる様子はなかった。
 これほどの強固な結界を突破するとなると、必然的に対抗術式もかなり強力なものになる。術力の高い錬時術師であれば対抗術式も難なく使えるが、いったん孔を開けてしまうと結界の強度は極端に落ちてしまう。そのため、リンはあえて結界を突き破ろうとせず、術力の比較的薄い箇所──結界のほころびを通過するという無難な手段をとった。
 灰色の壁に沿って島の周囲をめぐる。リンが探りあてた結界のほころびのすぐ近くまで来たところで、レギウスは彼女に声をかけた。
「ターロンを止めるぞ。たとえヤツを殺すことになっても、な」
 リンは神妙な顔でこくりとうなずく。月が太陽を食する日食の時間──あと二時間と少しのあいだに決着をつけなければならなかった。
 昨夜の嵐でイライラさせられっぱなしだったが、体調は絶好調だ。
 時間さえあれば、いまこの場でリンと再戦に臨めるほど、体力はありあまっている。
 リンとの濃密な時間を思い浮かべて、思わず口許がニヤけてしまう。リンが目ざとくそれを見とがめた。
「レギウス、顔がとってもスケベになっています」
「生きて還りたいと思ってるだけだ。このまま死にたくはないからな」
 当意即妙な返答にリンは目をしばたたく。
 レギウスは微笑む。リンも相好を崩した。気持ちはしっかりと通じている。
「……たとえ〈死者の書〉から必要な知識を得たとしても、ターロンが単独で〈黄昏(たそがれ)の回廊〉の封印を破壊できるとは思えません。人間には制御が困難な術式が含まれてるからです。彼には手助けが必要でしょう」
 リンが方向を指し示す。レギウスは慎重にボートを操って、灰色の巨大な壁に接近していく。結界のほころびがどこにあるのか、レギウスにはさっぱりわからない。「右……もっと左に寄せて」というリンの声に従って、ボートを進めていく。
 結界の壁に接触した。そのまま壁のなかにのめりこんでいく。〈破鏡の道〉の入口をくぐり抜けたときのことを思いだした。あれとよく似ている。
 ボートがやっと通れるぐらいの狭い抜け道──結界のほころびをゆっくりと通過していく。物理的な抵抗はない。濃密な霧のなかを進んでいるような感触だ。
「〈黄昏の回廊〉の封印を破壊するためには、いくつかの条件が整っていなければなりません。五柱の神々の力が弱まる日食……術力を増進するための術式陣……それに術式が正常に働くよう、力を貸してくれる巨神が不可欠です」
「巨神……灰色の女神が言ってた〈傀儡師(くぐつし)の座〉とかいう連中のことか」
「おそらくは」
「巨神は〈黄昏の回廊〉を通過できないんじゃなかったのか? どうやって巨神を呼びだすんだ?」
「わたしがすでに実例を示してるじゃないですか」
 レギウスは一瞬、考えこみ、リンの示唆を理解する。
「……灰色の女神か」
「神を宿す瞳……なにもわたしだけが特別なわけじゃありません。わたしの左眼と同じような力を持つ者は人間のなかにもいます」
「その人間が巨神を宿した?」
「ええ。その彼だか彼女だかが、ジスラの友人の竜を殺して時晶を奪ったのでしょう」
 結界の壁は思っていたよりも厚くなかった。壁を通り抜けて、結界の内側に出る。
 空を振り仰ぐ。太陽の位置は明るい部分でそれとわかる程度だ。分厚い灰色の壁が四囲だけではなく、天井までもすっぽりと覆っている。
 リンが前方を指さす。レギウスは目前に現れた別の壁を見上げた。
 あれが〈嵐の島〉──魔の島、と呼ばれる島だ。
 茶褐色の高い絶壁が、目路(めじ)の届くかぎり左右に続いている。陽の光は結界を透過するようだ。後ろを振り返ると、さながら墜落した積乱雲のような結界の壁を金色の光の束が射しつらぬき、島の周囲を縁取る断崖に長く濃い影を落としていた。
 この島には、遠い昔に地上を去った神々の力の残滓がこびりついている。島が錬時術の結界で封印されたのは、巨神の力を封じこめるためだ。だが、もとは僧籍に身を置いていたのにもかかわらず、レギウスに神威を直接感じる能力はない。
 時間の流れを止められた絶海の孤島はひっそりとたたずみ、その奇景をくすんだ空に向かって投げだしていた。
「それでもよくわからんな。そいつはいったい、どこで巨神と接触したんだ? まさか、あの〈第二図書館〉の地下書庫とか?」
「いいえ。もっと簡単な抜け道があります。〈黄昏の回廊〉の出入口は地上だけではなく、天界や冥界にも通じています」