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輪廻のうみ

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 のっぺりと鈍く輝くハンティングナイフが皮膚を破って肋骨と肋骨の間にめり込んだとき、わたしが思い出したのは砂浜に置き去りにされた気の毒な子供が、母を海の中へと連れ去ってしまった日のことだった。塩を含んでべとつく風、松林の不可解なざわめき、わたしの手のひらに残された痕跡は、内臓から噴き出す血と共に外へと溢れ出て、伸輔の顔面を覆い尽くした。顔も胴体もわたしの体から引き抜いたナイフですらも、あっという間に見えなくなり、ただ無に覆われた世界の中で、わたしが感じられるのは自分の血の温かさと、夕焼けを映す海の匂いだけだ。

 わたしが死ぬことになるその日の明け方、山の中にある病院を抜け出して家へ戻ったのはただ泥だらけのパジャマを着替えるためだった。かつて母と二人で住んでいた団地に着いたのは朝の七時過ぎだったけれども、ぼさぼさの髪、裸足、パジャマという恰好は人目を引くので、出かける人の多いうちはポンプ室の中に隠れていた。砂でざらつくコンクリートの床はわたしの体温を吸うだけでちっとも温まらず、いつまでも冷たかった。足の小指の爪が割れて血が滲んでいる。爪先には剥げかけたペディキュアが残っていて、その傷だらけのエナメルの場違いな赤色は、海へと消えた母とあの子を思い出させるのだった。わたしは左手首にしっかりと巻き付けたお守りを耳に押し当て、あの子の声を思い出そうとした。そしてついにわたしの声が届かなかった母のことを。この安産のお守りが父から母への唯一の贈り物であることを知ったとき、すでに母は海の中へと消えていたのだ。しかしふいに鉄扉の向こうから子供のはしゃぐ声が聞こえたとき、わたしの意識は記憶の海から引き上げられ、そのかわりに伸輔への燃えるような怒りが再び沸いてきた。あの子が生まれてきた理由を考えるのは、復讐をした後だ。それをしないことには、わたしは立ち止まることができない。わたしの部屋の机の上には伸輔からのメールや伸輔との通話を録音した音声データが容量いっぱいに収められている携帯がある。素知らぬふりをしてわたしを異常者あつかいして病院に入れ、わたしを忘れて日常の安全圏に隠れている伸輔に、額を擦りつけさせ何時間でも土下座をさせてやるつもりだ。

 伸輔と出会ったのはわたしがまだ十二歳のころ、デパートの八階で母の財布から抜いた一万円札を握り締め血眼になってセール品を漁っていたときで、伸輔は斜め後ろからなれなれしく声をかけてきたのだった。彼は言いわけのしようのないほどのロリコン、そして当時のわたしはというと好きな服さえ着られれば何があっても傷つかないと信じていた愚かな子供だったので、伸輔から雨あられと浴びせられた一万円札と洋服がぱんぱんに詰まった紙袋にわたしが屈したのは最初の出会いからほんの一時間後だった。飼い犬にお手をさせるより簡単だったろう。湿気のこもった汗くさいランドクルーザーの後部座席で、あこがれのブランドの紙袋に囲まれていたわたしは、打ちふるえるほど幸福だった。
 しかし伸輔とわたしの関係は、長きにわたって情熱的に続いたわけではない。中年になりかかった変態男と友達付き合いもできない子供が普通のまっとうな男女のように交際などできるはずもないので、わがままなわたしの扱いにうんざりした伸輔はわたし宛てのメールの数を一日ごとに減らし、服や靴などの釣り餌も三ヶ月で全てなくしてしまった。そんな状況の中、わたしはというと伸輔をコントロールするためにありとあらゆる知恵を絞った。彼が名乗った「中村」という苗字とIT関連会社の社長という肩書きが嘘であること、家族構成、住所を突き止め、そして小学校の教師であることを偶然知ってからは、伸輔はわたしの前では羊みたいにおとなしくなり、最初は饒舌だっためくれ気味の大きな唇はいつも半開きで苦しげに息をするだけで、自分を「お兄ちゃん」と呼ばせることもしなくなった。いつも汗をかいていた。わたしの前に姿を見せていいのはわたしが呼び出したときだけで、わたしがいいと言うまではは手を触れることさえ許さなかった。追い詰められた伸輔はベッドの上でわたしの首に手をかけたこともあったが、わたしの意識が遠くなる前にみっともなく泣き出してやめてしまったので、このときはまだ殺人犯にならずに済んだのだった。

 ポンプ室の冷たい床に座り込んだまま、わたしは肉食獣のように暗闇の中で息を殺し、ただ人通りが止むのをじっと待っていた。細く差し込んでくるだけだった朝の陽光はポンプ室の重苦しい扉を開けた途端、奔流のようにあふれて目を襲い、瞼の裏に血の色がひろがり、しばらくの間涙が止まらなかった。辺りは静かで鳥の鳴き声すら聞こえず、人びとは残らず死に絶えてしまったかのようだった。暖かい風が運んでくる空気は、かすかに死の匂いがする。わたしは音を立てずに忍び歩き、入院のときに隠していた鍵で扉を開けて部屋に戻った。換気をしていないせいで埃と黴の匂いがする。わたしはパジャマと下着を脱いで裸になり、まっすぐにバスルームに飛び込んだ。母が消える前からガスが止められているので、シャワーから出てくるのは痛いほどに冷たい水だ。丁寧に髪を洗ってから、わたしはようやくお守りを手首につけたままにしていたことに気がついた。しどとに濡れたそのお守りは、わたしの中から生まれてきた姿のそのままで、わたしの関心を引き出しの中へ閉じ込めた、あの懐かしい日々を思い出させた。

 それは連休と連休の間の、とても人の少ない日だった。雨が降っていたが、わたしは傘の代わりに両手に数着の服が入った紙袋を持って急いで歩いていた。すでに駅のトイレで制服から私服のワンピースに着替えていたが、補導の危険があったのでさっさと家に帰る必要があった。しかし地下鉄の改札口に着いたとき、わたしは突然下腹部に猛烈な痛みを感じ、切符売り場の前で立ち止まった。四肢が石になってしまったかのように、わたしの体は命令をきかなくなった。電車がレールを走り抜ける轟音やざわめきは消え、しっとりと湿った静寂が冷たく固まったわたしの皮膚を包んだ。甘い汗の匂いを感じ、わたし以外の人の気配が足元から立ちのぼるのを感じ、誰かと誰かとの親密な空気を感じ、果てしない快楽への期待を感じ、やがて痛みは突拍子のない違和感に変わり、わたしの足の間から、しっとりと濡れた、妙な小袋が床に落ちた。わたしはだらしなく引き伸ばされた長い時間を辛抱づよく待ってから、その小袋を拾った。それはなんと不敬にも、古びたお守りの中に入っていたのだった。近所にある神社の名前の隣に安産祈願と刺繍されおり、黒ずんだ縫い目には既視感があった。他人にはただのお守りにしか見えなかっただろう。ぴくぴくと動いてさえいなければ。そして、小さく泣き喚いてさえいなければ。わたしは中を確かめることをしなかったが、大事にハンカチに包んで家に持って帰った。それが何かを知っていたからだ。わたしは自分の部屋に着くとお守りに入ったそれを机の引き出しの中に仕舞った。湯島天神の鉛筆と、伸輔の定期入れの中から抜き取った、吐き気のする家族写真の間におさまって、お守りはまた泣いていた。
作品名:輪廻のうみ 作家名:まちこ