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博士の天才

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 透明人間もダメ、幽体離脱もダメ、性転換もダメ。
 他に方法は残っているだろうか……。
 
 いや、まだ方法はある……・。

 小人化計画。

 博士の身長は160センチ、1/100になれば1センチ6ミリ。
 それくらいならどうにでも隠れることが出来る。

 博士は早速研究に取り掛かった。
 それが博士にどんな苦難をもたらすことになるのか、その時の博士は想像だにしなかった……。


 件の温泉旅館に落ち着いた博士は早速バッグから薬を取り出した。
 持続時間は約3時間と設定してある、部屋に戻る前に食事は運ばれるだろうが、温泉にでも浸かっているのだろうと考えてくれるだろう。
 今度の薬は即効性、薬を飲み干した途端に博士の体は縮み始め、予定通りの1センチ6ミリに。

 小さくなった博士は丸裸だ。
 体は小人化したが、服まで小さくなるわけではない、そして着せ替え人形の服ですら博士には大きすぎ、そんな小さなサイズの服を作れるわけもないので、あらかじめ小さく切っておいたガーゼを腰に巻くのが精一杯……しかし、これはいたし方がない、見つからなければ良いだけのこと。
 ドアノブに手が届かないのは想定内だ、ドアには空調のためのアンダーカットがある、四這いになれば簡単に潜り抜けられる。
 この旅館の空調システムは部屋の中に吹き出しがあり、廊下にリターンダクトがある設計、空調が稼動している状態ではドアのアンダーカット部分には常に空気の流れがある、通常のサイズでいる時は気がつかない程度の風なのだが……。


「風が予想以上に強いな、吹き飛ばされそうだ……」
 博士は慎重に四つん這いでドアを潜り抜けた。
「う……これは……」
 廊下を見て思わず立ち尽くす。
 小人になる事を想定して大浴場と同じフロアで、最も近い部屋を取ったのは良いのだが、それでも部屋から大浴場までは約30m、今の博士にとっては3kmの道のりに等しい、往復なら6kmだ、普段からスポーツに親しんでいる人にはともかく、普段まるで運動と言う物をしない博士には気が遠くなるような距離……。
「どうしよう……」
 博士は持久走も大の苦手、1km走るのに7~8分はかかってしまう、3kmとなればもっとペースは落ちるから30分と言ったところか……。
「迷っていても始まらない、なに、時間は充分にある」
 博士は気を取り直して走り出した。


「はぁ……はぁ……はぁ……なんの……これしき……」
 日ごろ運動することのない博士はすぐに息が上がってしまう、しかし女湯の誘惑が博士をつき動かし、なんとか遠い道のりの半分は踏破した。
 途中、幾人もの人とすれ違ったり追い越されたりはしたが、壁際を走っている限り危険は感じない、問題は自分自身の脆弱な体力だけ……のはずだったのだが……。

「ん?……なんだろう?あの音は」
 遠くで鳴り響いている轟音がだんだんこちらに近づいて来る。

「まずい! 掃除機だ!」
 もっとずぼらな従業員なら良いのだが、真面目な人間らしく、壁際まできっちり掃除機を滑らしている。
 あれに吸い込まれたら命の保障はない、いや、吸い込まれる時には運良く無事だったとしても掃除機の中から抜け出せないまま元のサイズに戻ったら……博士の背中を冷や汗が流れ落ちる。
「一体どうしたら……あれだ!」
 博士の現在地から3m先……つまり博士にとっての300m先に観葉植物の鉢が……。
 博士は全速力で……と言っても徒競走ではダントツのビリしか取ったことのない博士の最高速度は時速17km、つまり今の博士は時速170m、秒速に直せば4㎝7mmしか出せないのだが、必死の思いが脚を動かし、ギリギリで鉢の裏側に逃げ込んだ。


「ふう……危なかった……」
 幸い、従業員は鉢を動かすことも無く通り過ぎて行った。
「やれやれ、こんなに大変だとは……」
 博士はとぼとぼと再び歩き出した。


「パパ、見て、小人さんだよ」
 一難去ってまた一難。
 大人は壁際になど注意を払わない、人が通り過ぎる時はじっとしていればまず見つかる気遣いは無いのだが、子供はまた別。
 元々視点が低い上に道端の虫にでも興味を示す、小人などいようものなら見落とすはずもない。
「…………」
 身も細る思いで頭を抱えてうずくまる博士……。
「そりゃ良かったね」
 父親の声は優しげだが、はなっから信用してはいないようだ。
「うん、こんな小さな人がいたんだよ」
「ははは、それはもしかして妖精さんじゃなかったのかな?」
「ううん、羽は生えてなかった……」
 親子の声が遠のいて行き、博士はそっと顔を上げた。
 子供はパパの腕にぶら下がって大喜びしている……あの分ならもう忘れてくれているだろう……。
 再び走り出した博士だが、足取りは重くなる一方……。


 半ば嫌になりかけていたが、もう一部屋分の距離で大浴場にたどり着く、ここまで頑張って目的を達しないまま戻るのも癪に障る……博士は気持を奮い立たせながら前を目指す。

「ん?……なんだろう?あれは……」
 まだかなり遠いが、なにやら黒い物体が凄いスピードで壁際を疾走して来る。
「げっ、ゴキブリだ!」
 通常サイズの時ですらゴキブリは苦手、薬品だらけの研究室で殺虫剤を撒くわけにも行かないので瞬間冷凍ガトリングガンまで作ってしまったほどだ、自分の倍のサイズのゴキブリを目撃しただけで気が遠くなりそうだ、しかもその速い事と言ったら……実はゴキブリはコンクリートでさえ餌にしてしまう強力な顎も持っている、捉まって頭から齧られでもしたら……サメやワニに食われるほうがまだマシだ。
 ぞっとしている間にもゴキブリは迫って来る。
「南無三!」
 幸い、博士が立ち尽くしていたのはドアの前、アンダーカットから室内に逃げ込むしかない、ただし、ゴキブリもその隙間は通行可能だ、追われればひとたまりもないが、ただ立ち尽くしているよりもずっとましだ、普段は神仏には見向きもしない博士だが、思わず仏に祈ってアンダーカットから室内へ逃げ込んだ。

「ふう……どうやら助かった」
 ゴキブリは猛スピードで走り去って行ったようだ。
 だが、ほっとしたのもつかの間……。
「お風呂行こう!」
「うん! 行こ❤行こ❤」
 奥の部屋から若い女性が二人……なにも部屋からドアまで走らなくても。
 博士はありったけの力で走ったが、いかんせん秒速4cm7mm、とうてい壁沿いまでは辿りつけずに頭を抱えて丸くなった。
 幸か不幸か……。
 博士は勢い良く明けられたドアの風圧で飛ばされ、廊下を転がりながら横断してしまった。
 壁に打ち付けられる寸前で止まったのは不幸中の幸いだったが、体は痛むし目は廻るし……しかし、こんな所でうずくまっているわけにも行かないのだ、タイムリミットまであと1時間半、丸裸のまま廊下で元のサイズに戻るわけには行かない、しかも大浴場は目の前、ここで諦めてなるものか。
 博士はよろよろと立ち上がって一歩一歩踏みしめるように歩き始めた。


「こんな大冒険になるとは……」
 ようやく大浴場にたどり着いた博士は疲労困憊……しかしここまで苦労したからには目的を果たさずに戻るわけにはいかない。
作品名:博士の天才 作家名:ST