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ふしじろ もひと
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『遥かなる海辺より』第2章:ルヴァーンの手紙

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 夕方の前触れとなる風が吹き始めたとき、老いたる村長に促された私は小さな入り江に向かった。西に傾いた太陽が波間に金色の光を投げかけ、無数の波がそれを散乱させていた。輝く波間から顔を出した小さな岩が、さざめく光の上に黒く浮かびあがっていた。
 その黒い岩の上に、銀色の光を返すものがいた。近づくにつれ緑と赤の色彩が新たに加わり、かつて旅人が語ったとおりの麗しき妖魔の姿となった。うっすらと青みを帯びた銀色の鱗に覆われた長い体には水草のような緑の髪が劣らぬ長さで添い、背を覆う髪の間からは赤い背びれが船の帆のように突き出ていた。
 私たちが近づくのを知ってか知らずか、人魚は横顔をさらしたまま海の彼方を見つめていた。大きな耳とどこか猫に似た鼻を除けば、その顔は驚くほど人間に似ていた。
 そしてその大きな赤い瞳に宿る影を見たとき、私も初めて実感できた。村全体を押し包み村人や私の心をも染める憂いの源が、確かにこの麗しき妖魔であるのだと。

「ルードの救い主よ。潮を告げる者よ。相見えたるは我が喜び。数多の喜びと悲しみを共にする我らより夕べの挨拶を」
 村長アギが呼びかけると、人魚は物思いから覚めたように頭を巡らせた。大きな赤い瞳が枯れ木のような老人を認めた。
 そのときの人魚の表情をなんと形容すればいいだろう。とても柔和な親愛の表情でありながら、それは喜びと同じだけ、確かに悲しみにも彩られていたのだった。胸を突かれる心地の私の耳に幻妙としか言いようのない声が届いた。
「最初の者らの最後の子よ。ここに見えし喜びを留めるすべなき身ぞ哀し」
 古めかしい韻をふむ言い回しで儀礼的な呼びかけに応じたその声は、鈴を震わせたような麗妙な響きを帯びていた。いくつかの声が重なりあうとき、稀に聞かれるものにそれは似ていた。
 幻惑するようなその響きに、私はたちまち魅せられた。そして思った。これほどの声を持つ存在が歌わぬはずなどありはしないと。それはもはや確信だった。
 だが私のそんな思いになどおかまいなく、老いたる村長は私のことを紹介した。
「これなる者はルヴァーンと申す遠つ国の楽士じゃ。今宵はこの者の調べに耳を傾け、憂いに沈む心を慰めたまえ」
 妖魔の視線がこちらを向き、私はどぎまぎしながら見返した。そんな私たちを村長アギはしばし見つめたあと、再び彼に視線を戻した人魚に一礼し去っていった。杖にすがりおぼつかぬ足どりで去る後ろ姿を、海魔のまなざしがどこまでも追っていった。

 こうして私たちは取り残された。

 人魚の歌を聴きにきた私が、人魚に向けて演奏することになるとは! ましてかくも妙なる声の持ち主に、人の身でなにを聞かせられようか。けれど、できることはそれしかなかった。彼女の憂いを払わぬ限り、なんの進展も見込めなかったのだから。
 憂いに染められた上に気後れする心を無理やり振るい立たせながら、私はひたすら笛を吹いた。少しでも心の晴れそうな明るい曲を片端から選んだ。落日が空と海を真紅に染め、やがて白銀の粉を散らしたような星空に変じる中、私は笛を繰り続けた。
 人魚は喜んでくれたようだった。微笑みさえ浮かべじっと耳を傾けてくれていた。でもそれは、私の音楽が心に届いたからではなく、私の行い自体に寄せられた好意に相違なかった。私の心にさえ忍び寄る憂いは、薄らぐ気配すらなかったのだから。

 永遠に明けぬかとさえ思えた空が白み始めたとき、ありがとうの一言を残し麗しき海魔は波間に滑り込んでいった。そのたった一声に、私は呆然と立ち尽くすばかりだった。私が夜通し吹いた調べをすべて集めても、その声一つの美しさにかなわないことがあまりにも明らかだったから。こうしてルードでの私の日々は、絶望の涙で始まったのだ。