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洪嶽とアルバート

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 アーレ川のほとりに寝転んでまどろむうち、男はいつしか夢を見ていた。それは他愛のない夢だった。夢のなかで彼は通勤バスに揺られていた。見慣れた街の景色がゆっくりと窓の外を流れ過ぎてゆく。やがてクラム通りの突き当たりに時計塔(ツィットグロッゲ)が見えてきた。男は「あっ」と声をあげた。なぜか文字盤の針がぐるぐると逆回転しているのだ。どうしたことだろう。そう思ったとたん、今度はバスがぐらりと揺れた。男はあわてて前の席の背もたれにしがみついた。まるでヘリウムガスを詰めた風船のように、車体が宙に浮きあがってゆく。身を乗り出すようにして窓の外をのぞき込むと、はるか眼下に茶色い瓦屋根を連ねたベルンの街なみが広がって見えた。アーレ川が馬の蹄のように蛇行しているのがよくわかる。やがてバスはぐんぐん急上昇をはじめ、見下ろす大地がしだいに丸みを帯びてきて、ついには完全な球体となった。そこでバスは一気にスピードをあげた。地球がどんどん遠ざかってゆく。さらにスピードをあげると、金星や水星がものすごい速さでわきを通り過ぎていった。
 男は思った――自分は今、光とおなじ速さで宇宙を進んでいるのだ。
 不意にまばゆい光が目をつらぬいた。太陽だ。太陽がどんどん近づいてくる。バスは巨大な火のかたまりへ向かって真っしぐらに突き進んでいた。いけない、重力に引っ張られているのだ。男は太陽の有する圧倒的な質量を感じて恐怖した。ひたいから大量の汗が噴き出す。このままでは自分は燃え尽きてしまうだろう。今や眼前に迫った太陽は、旧約聖書に登場する地獄(ゲヘナ)のごとく真っ赤な炎を吹きあげ、周囲の空間をちろちろと舐め回していた。
 熱い、熱い、だれか助けてくれっ。
 ちっぽけなバスがいよいよ巨大な火の海に飲まれようとする瞬間、男の頭のなかである数式がひらめいた。

 E=mc²

 そこで男はがばっと身を起こした。手のひらが熱せられた草の感触を味わう。ひたいから幾すじも汗が伝い落ちた。まぶしい。七月の晴天から日が容赦なく照りつけている。目のまえには、エメラルド色をしたアーレ川の清流が、夏草の隙間からまばゆい輝きを放っていた。その涼しげな水音を聞いたとき、男はようやく安堵の息をついた。
 今の夢は一体なんだったのだろう。
 手についた草を払ってから懐中時計を取り出す。いけない、もうすぐ昼だ。家ではそろそろ妻のミレヴァが得意料理のレシュティでも焼いていることだろう。もう帰らなければ。そう思って腰をあげた瞬間、男はぎょっとして立ちすくんだ。すぐ後ろの土手で、異様な風体をした男が黙ってこちらを見下ろしていたのだ。頭髪をきれいに剃りあげた東洋人で、黒い民族衣装のようなものを着ていた。
 少し躊躇したが、もしかしたら自分になにか用があるのかもしれないと思い、声をかけてみた。
「やあ、こんにちは。今日も良い日和ですね」
 そうドイツ語であいさつしたが、東洋人は小首をかしげただけだった。そしてアメリカ訛りの英語で、こう言った。
「河原を散歩していたら、あんたがずいぶんと夢にうなされているようだったので、不躾ながらこうして様子を眺めておったのです。一体どんな怖い夢を見ていなさったのかね?」
 子供じみた夢の内容を思い起こし、男は気恥ずかしくなった。
「なに、くだらない夢ですよ。それより失礼ですが、あなたは中国人ですか?」
「わたしは日本人で、名を洪嶽(こうがく)といいます。こう見えても仏教僧の端くれでしてな」
 よく陽に焼けた顔をくしゃっとほころばせる。その天衣無縫とした仕草が好ましく思え、男はみずから右手を差し出した。
「わたしは特許庁の役人で、アルバートといいます」
 英語の発音でそう名乗ってから、どちらからともなく河原にならんで腰をおろした。
「日本の僧侶がなぜスイスの街なかを散歩されているのです?」
 そうたずねると、洪嶽はバツが悪そうに頭をぽりぽり掻いた。
「じつは、わたしの国は今ロシアと戦争中でしてな。自分も従軍布教師として戦地へ赴いたのですが、いかんせん不殺生を旨とするはずの仏教の僧侶が、殺戮の真っただ中へ身を置くというのはどうにもつらいものがあります。あれこれと思い悩むうちとうとう身体をこわし、戦線を離脱したついでに保養もかね、こうしてヨーロッパの国を旅しているのです」
 そう言ってから、洪嶽は急にまじめくさった顔でアルバートを見つめてきた。
「ところでこういう稼業をしていると、人間の苦悩というか、業のようなものが気になって仕方ありませんでな。さしつかえなければ、あなたが夢にうなされるほど思い悩んでいるわけをお聞かせ願えませんでしょうか」
「話しても、きっとあなたには理解できないと思いますよ」
 アルバートは遠い目をして言った。
「今までいろんなひとに聞いてもらったけど、だれも相手にしてくれなかった……」
 すると洪嶽はあぐらをかいたひざを、ぽんと打った。
「こんな話があります。あるとき厳陽(げんよう)という僧が、師の趙州(じょうしゅう)にたずねた。わたしは一切のものを捨て去り、もはやなにも持っておりません。となると、この先は一体どうしたらよいのでしょう? すると師はひとこと、捨ててしまえと言った。驚いた厳陽が、もう捨てるものなどありませんと答えると、趙州はさらにこう言った」
 アルバートの顔をのぞき込んで、洪嶽は楽しげな口調で言った。
「その、捨てるものがないという心を捨ててしまうのだよ」
 一瞬の沈黙のあと、アルバートはプッと吹き出した。
「あはは、こりゃいいや。日本人というのは、なんて面白いものの考えかたをするんだ」
 ひとしきり笑ったあとで、アルバートが言った。
「じゃあ、あなたに訊ねますけど、りんごがみずからの重みで枝から落ちるとするでしょう。そのまま地面と衝突するわけですが、これはりんごが地球にぶつかったのか、それとも地球のほうがりんごへぶつかっていったのか、どちらですか?」
 洪嶽は、ふむと息をついて考え込んだ。ほうら理解できないでしょう、とばかりにアルバートが鼻白む。しかし程なくして洪嶽は、川の対岸にある建物を指さして言った。
「あれをご覧なさい」
 それは役所の建物で、正面玄関のまえにはスイス国旗がはためいていた。
「あれは旗が動いているのか、それとも風が動いているのか」
 アルバートは半ばむっとして言った。
「あれは気流が作用して旗を揺らしているのだから動いているのは旗です。ああでも待てよ、旗は風の動きに合わせて揺れているのだから、つまり……」
 洪嶽がにっこりして言った。
「動いているのは、あなたの心です」
 アルバートはびっくりして洪嶽を見つめた。そのうちに彼は憑き物が落ちたように晴れやかな表情になった。
「よくわからないけど……今なぜだか急に心が軽くなったような気がします。わたしはあまりにも相対的な観念に囚われすぎていたのかもしれない」
「仏教ではこれを不二法門と言います」
「不二法門ですか。宗教的な思考法は苦手ですが、その教えにはなにか物理学にも通づるものがあるように思えます。あの、それではこれはどうでしょう」
 先ほどまでとは違い、洪嶽を見るアルバートの目には明らかに尊敬の念がこめられていた。
作品名:洪嶽とアルバート 作家名:Joe le 卓司