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思春期発火症

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「知ってるか」
 座卓の向かいから、崎がいきなり言った。
 簾を下ろしてあるので、座敷の中は薄暗い。けれども勉強にさしつかえるほどではない。開け放した窓から吹き込む風は涼しい。縁側には崎の家の猫がだらりと気持ち良さそうに寝そべっている。
 軒先に吊るした風鈴がかりかりと鳴った。
「何」
 僕は辞書をめくる手は休めずに答えた。
 崎の骨ばった指さきで、鉛筆がくるくる回っている。崎はどうやら数学をやっているらしい。数式の書き散らされた計算用紙。
 麦茶の氷はすっかり溶けて、青い花を画いたコップはびっしり汗をかいている。いつもなら崎の家の小母さんが冷した西瓜か水羊羹でも持ってきてくれるころだが、今日は何かの集まりがあるとかで出かけているらしい。
 簾の向こうには真っ白な真昼の光が。
 こんな日には、海でも行きたいと思う。どうせ暑いなら、頭の芯まで焼き焦がされるくらいのほうが潔い。ぬるい麦茶のかわりに、あたたかくて塩辛い海の水に喉を焼かれるほうが、十四歳の年令には相応しいような気がする。
けれど、休暇に入る前に、崎と僕は決めたのだった。
 今年の夏は、生っちろ白いイヤナヤツになってやろう。
 参考書売り場で選んだ、難関高校志望者用のいかにも手強そうな問題集を一冊、一夏かけて解くようないやらしい過ごし方をしてやろう。崎はそういうことを面白がってする人間だし、僕も暑さにダレた夏をなんとなく過ごすよりはいいかと思った。

 休みというとむやみやたらに興奮したのは、小学校の低学年までだった。何処へ行っても夏は暑いし、人は多い。父さんは疲れて一層無口に、そのぶん母さんははしゃいでいるのか苛々しているのかわからない甲高い声をあげる。妹はつまらなそうな顔をしているくせに、何処へも行かないとなるとぶうぶう文句を言う。だから「崎と一緒に勉強するから」というのは、僕には都合のいい言い訳だったのだ。
 他の友人なら通らないわがままも、崎と一緒なら受け容れられる。崎公一の名前は、学校の先生と同じくらいの信用があるのだ。
 崎の家は僕のうちより広くて、静かで、涼しい。クーラーなどつけなくても、窓を開け放せばいい風が通る。「古いだけだ」と崎は言うが、昔の人はちゃんと考えて家を建てたんだとわかる。小母さんの掃除が行き届いているから、古くても汚れた感じはしない。
 こんないい環境で、必要に追われてするのでなければ、勉強だって悪くはないような気がしていた。
「シシュンキハッカショウ」
 忘れたころになって崎は返事をした。
「何。シシュン……」
 ずっと英語と格闘していたものだから、アルファベットの文字面が浮かんだ。エスエイチアイ?
「し・しゅん・き・はっ・か・しょう」
 崎はひとつひとつ区切って発音しながら、計算用紙の端に漢字を書いた。
  思 春 期 発 火 症
 何のことだろう。
「知らない。新種の病気か」
 崎の小父さんは医者だから、崎もいろいろ詳しい。小父さんの書斎から持ち出した外国語の厚い本には、信じられないように変形した人体や、内臓が、精密な絵や写真になって載っていた。腹の中が捩れるような感覚を唾液と一緒に飲み下しながら、崎と僕は黙ってページを追った。
「新種、じゃないと思うな」
 崎は鉛筆を投げ出した。数学に飽きたのだろう。僕も少し日本語が恋しくなっていたところだ。
 調べたばかりの熟語の意味をノートの端に書き付けて、僕は辞書を閉じた。
「じゃあ珍しい病気か。聞いたことない」
 僕らが情操教育上あまりよくない本ばかりを選んで眺めていることは、小母さんにすぐに知れた。崎と小父さんはくどくどと怒られたらしく、その後は書棚に鍵がかかった。けれども崎は、どうかして合鍵を手にいれたらしい。両親の目をかすめて、一人でそっと禁じられた本に見入っているのだろう、ときどきそうして見つけた珍しい話を僕にもきかせてくれることがある。
 今度のもそうだと思った。
「多分さ、ちゃんとした名前はまだついてないんじゃないかと思う。研究してる人がいないんじゃないかな」
 それならどうして、崎が知っているのだろう。ちらりと浮かんだ疑問は置いて、
「“アイスクリーム頭痛”みたいなもんかな。素人が勝手に呼んでる名前」
「アイスクリーム頭痛はちゃんとした名前だけどな。……ああそうだ、冷凍庫にアイスがあるんだってさ、食うか」
「うん」
 崎はぬうと立ち上がった。
 ぺたぺたと廊下を裸足で歩く足音が、台所の方へ続く。夏休みに入る少し前から不精に伸ばし始めた崎の髪が、もう肩に付くほどになっていた。
「なんかいろいろあるぞお。何がいい」
 こもった声がする。
「何がある?」
「良く分からん」
「じゃ見に行く」
 立ってみて、肩や背中が結構凝っていたことに気がついた。うう、と伸びをするとどこかの関節がぽきんと鳴った。
 立ったついでに猫をなでたら、いかにも面倒くさそうにしっぽの先をちょろっと振った。仔猫のときには引っ掻かれても我慢して、さんざん遊び相手をしてやったのに、薄情猫め。
「この黄色いのはなんだ? レモンか?」
「なんか説明書とかついてないのか」
 崎は白い紙のカップを取り出しては並べていた。シンプルな包装とどぎつくない色。高級そうな感じがした。
「ないな。まあなんでもいいか。親父が貰って来たもんだけど、多分怪しい菌はついてないと思う」
 病院の冷蔵庫には、薬品やサンプルに混じって練り山葵やら缶ジュースが入っているというから、なかなか笑えない話だ。
 崎は謎の黄色いの、僕はキウイシャーベットと思われる黒い粒々入りの緑色のを選んで、座敷に戻った。
 猫の姿は縁側から消えていた。
「薩摩芋か南瓜だな。甘い」
 上品なカップ一つを平らげても、ツンとくる痛みは起こらなかった。
「思春期発火症の続き」
 促すと崎は一つうなづいた。
「読んで字の如く。思春期に起こる症状で、発火するんだ」
「発火? 何か燃やすのか」
「燃えるんだよ」
「燃えるって、人間が?」
 に、と笑ったような気がした。
「火傷するじゃんか。死ぬ」
「いや、死なないな、たいていは。……ときどき死ぬけど」
「どうやって? 発火温度って何度だっけ? そんな高温、どうやって起こす」
「自然に火がつくんだよ」
 かつがれているのかと思った。けれど崎は真面目な顔をして僕を見ていた。
「……オカルト方面にも手を出したのか」
「別にオカルトのつもりはないんだけど」
「Xファイルかなんかでやってたろう、人体自然発火現象とか。でも燃えるほどの高温、ほんとだったら死ぬ」
「死なない火なんだ」
 よくわからない。
「……発症するのは主に思春期。だんだん大人になるのにつれて、症状は消える」
「症状って?」
 わからないなりに聞いてみようと思った。
「だから発火するんだよ。時も場所も、お構いなし。本人にも予測がつかない」
「でもそんなこと、本当にあったら凄い騒ぎになるだろう。人が燃えたり……火事になったりするだろう」
 そんな話は聞いたことがない。すくなくとも日本国内では。
 いやもしかしたら、週刊誌とかオカルト雑誌には載るけれど、普通の新聞やニュース番組が黙殺しているだけなのかもしれない。
作品名:思春期発火症 作家名:みもり