冒険の書をあなたに
第二章 ラインハットにて〜追福、終わりと始まり
翌朝アンジェリークが目を開けると、穏やかな瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていた。
既に身支度を終えてターバンをきっちりと巻いたルヴァが、寝台の端に腰掛けてアンジェリークの髪を優しく撫でている。
「おはようございます、アンジェ。喉が渇いてはいませんかー」
サイドテーブルに置かれた水差しからグラスに水を注ぎ入れてアンジェリークの手に渡し、にこりと微笑んで立ち上がり窓辺に歩み寄る。
静かに窓を開け放つと豊かな木々の香りが風に運ばれてきて部屋中を満たしていく。
アンジェリークはその清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んで、ルヴァのほうを見た。
「……昨日はありがとう、ルヴァ。もう大丈夫」
手渡されたグラスの水はとても冷たく、喉を下りながらアンジェリークの体に染み渡っていった。
ようやく花開くような笑顔が戻ったことに心から安堵して、ルヴァは再びアンジェリークの側に戻りその頬に口付けた。
「いえ……私は何もしていませんよ。でもあなたが元気になって、良かった……」
壊れ物を扱うようにアンジェリークを抱き締める。
「わたしも着替えなくちゃね。もう皆さん集まっているかしら」
アンジェリークがルヴァの肩に両腕を回すとそれを合図に背から腰に手が回り、そっと寝台から降ろされた。
「そろそろ集まっている頃合でしょうねー。昨日は行くと言ってしまいましたけど、もしあなたが無理そうなら私が断ってきましょうか」
ルヴァとしては本音を言えばラインハットに行くのは気が進まなかった。
彼らの時間に水を差す形になることは避けたかったし、水鏡の件も気がかりだった。
「ねえ、ルヴァ……本当は、行かないほうがいいとは思うの。わたしたちは部外者なんだし……。でも、どうして水鏡はわたしにリュカさんの過去を見せたのかしら」
「……」
考えをまとめながら話しているらしいアンジェリークに、ルヴァは黙ってその瞳を見つめたまま次の言葉を待った。
「女王候補の頃はたいして気にも留めてなかったんだけど、あの頃夢や水鏡で見た出来事って、今のわたしにはある程度必要な情報だったと思うの。その人の言葉の真意がよくわかったから……」
それは厳しさの裏側にある優しさだったり、皮肉な言葉に隠された労りだったり。一癖もふた癖もある守護聖たちの本当の人となりを知るのに役立った。
「では、今回の水鏡もあなたにとって何らかの意味をもたらすものである、と……そうお考えなんですか?」
ルヴァのそんな問いに、アンジェリークは真剣なまなざしでこくりと頷いた。
「あれはとても残酷で悲しい出来事だったけど、目を背けちゃいけない気がするのよ……」
何故アンジェリークに悲惨なものを見せるのか。それへの答えはどうやらラインハットへ行かなければ出てこないようだ、とルヴァは嘆息した。
「……行きましょうか、ラインハットに」
最早ただ守られ泣いているばかりの少女ではなく、大人しく玉座でお飾りになっていられる女王でもない。だがルヴァはそんなアンジェリークが好きだ。
「行くのなら仕度を急いで下さいね、もう余り時間はありませんよー」
アンジェリークの背に手を添えて、浴室へと促す。
「あ、なんでしたら私が洗ってあげましょうかー。隅々まで」
「け、結構です! もう!」
冗談半分で言ったついでに部屋着を脱がそうとした──実は夜中に着替えさせたのはルヴァなのだが──ところで無理やり浴室から押し出された。耳まで朱に染めた姿が初々しかった。
ルヴァのばか、えっち、セクハラ守護聖は一人で充分よ、だとかいう可愛い暴言──最後の言葉は切実なものを感じるので後日要調査──が扉の向こうからぶつくさと小さく聞こえてきて、ルヴァは思わず吹き出してしまった。
(お互い全部曝け出しているのに何を今更……でも、ああいう変わらないところも可愛いものですねぇ。オスカーにからかわれていた理由が、今はよく分かります)
アンジェリークが慌しく身支度を整えて、二人はようやくルイーダの酒場前へやってきた。
子供たちが真っ先に駆け寄ってきて二人の手をすかさず引っ張ってくる。
「おはようございます、天使様、ルヴァ様! 今日は一緒にラインハットへ行くんですよね」
「おはよーおじさ……じゃなかった、お兄ちゃん! お姉ちゃんも! 今日はずっと一緒だねー!」
周囲に注意でもされたのか、おじさんと呼ぶのをやめたらしいティミーが満面の笑みを浮かべている。
早く来て、とせっつかれながら引っ張られていくと、リュカとビアンカも仕度を終えた様子で待っていた。
「おはようございます、お二方。昨日はほんとすみませんでした。あれから寝付けましたか」
そう言ってリュカの視線がアンジェリークへと注がれる。それを受けてアンジェリークが小さく微笑み、頷いた。
「それなら良かったです。……えっと、今日はルーラっていう移動呪文でラインハットに行きます。ちょっとびっくりさせてしまうかも知れませんが……」