川のよろしさ
限りなく透明な水は時に打ち破れ薄布と変わり球となって一瞬煌めくと岩を濡らし舞い落ちる。
その水たちはそれら全てを受け入れ時に上へ下へと流れを変え岩肌をぬい下って行く。
決して無理はしない。
石を研ぎながら瀬を渡ればカラカラとリズミカルな音に合わせ、若い香魚が僅か一年の命を燃やし踊る。
呼吸を整えるようにひととき淵に集いあえば一葉の落葉の陰に銀鱗の魚たちが戯れる。
そこで清流はその色を上質の翡翠へと変え、登った陽光は更にその水たちを瑠璃へと変化させる。
人々はその透明な群青を仁淀ブルーと称し、自らの身体に取り込み日々の営みへと変えていく。
清流の一部は別れ木々の水分と同調し白いベールとなり谷間を優しく包み込み、森を潤し新緑と形を変える。変遷を繰り返した多くの水はやがて集い、遠い故郷を懐かしむかの様に穏やかな流れとなって大海原へと向かって流れていく。
その川を人は奇跡の清流仁淀川と呼ぶ。
作家宮尾登美子が暮らし小説仁淀川に書いた風景は今も確かにある。
その川の上流、安居川が土居川となって流れる谷あいに仁淀川町池川という小さな集落がある。
山林と川と茶畑以外これとったものは何も無い。何も無いが、ただゆったりとした時間が流れてこれが何よりの贅沢と幸福を味わえる場所である。
人々は温かく来訪者を迎え、また送り出す。
幼き頃よりこの澄んだ水と共に暮らす人々が自然と人間性までも澄み、純化していっても何の不思議も無い。
かつてそこを訪れた放浪の俳人種田山頭火はその地にこんな言葉を残した
山のよろしさ 川のよろしいさ 人のよろしさ
山頭火が訪れてから長い時が経ったが、ここはそれを今でも変わらず実体験出来る稀有な場所である。
土居川の川辺に座り目の前をサラサラと小気味好く流れる川面を眺めていれば、「我々は何者なのか」というゴーギャンの問いが自然と湧いてくると同時に、自分もこの滴と同じなのだと思えてくる。時折吹く初夏の風に川面はその存在を主張するかのように漣となる。
深緑の葉桜となった吉野が南国の強い日差しを遮り、なお一層の涼しさを演出してくれ、この地で取れた茶葉と水で入れた緑茶で喉を潤せば清涼感を味わえる。遠い旅の途中別れた水は茶葉に姿を変えたものと水とが一つになりハーモニーを奏でるのである。
その味は芯が通っていながらほんのり甘く、香りの広がる池川茶は何処か土佐人のおおらかな性格にも似ている様だ。
何もいらない
ただ水を眺めているだけだなのに飽くことも無く、川面を吹く風と時間だけが心地よく流れていく。
歳を取ると何度か見る風景に感動出来る場所はそうは無いが、何度訪れても感動出来る、実に快い楽園は確かに現世にもあるのだ、それもこんなに近くに。
マスコミの垂れ流す情報を信じ鵜呑みにし、その価値観を良しとし、ブランド品や下品なクルージングが良いものと信じている者には決して分からない場所かも知れないが。
一滴の水になるのも奇跡なれば、太平洋へたどり着くのも奇跡
その水によっていきている人間も常に奇跡によって生かされていると考えさせられる奇跡の清流仁淀川であった。