あの綿毛のように
四
ふいに、玄関で物音がなって、私は時計を見た。
午後五時、夏場だからまだまだ明るいけれど、お腹は夏だからといって晩御飯を気長に待ってはくれない。そろそろ準備を始めなければ、と思い、キッチンに入ると、リビングに弟の海(うみ)が「ただいま」と言いながら入ってきた。
「お帰り」
「おじゃましてまーす」
海は見慣れない私の客人を見て、一瞬たじろいだが、すぐに持ち直して「ども」と言った。
「弟君、名前は?」
佐々木さんが海にそう聞いたのだが、海は少しためらっている様子だった。
「海」
代わりに私が答える。途端に海は私を軽くにらんで、「姉ちゃん!」と非難した。
「仕方ないでしょ、あんたの名前なんだから。それに、言う程変じゃないって」
海は自分の名前にコンプレックスを持っている。本人いわく、「女っぽい」とのことだった。そのたびに、私は「言う程女っぽくない」と答えているのだけれど、どうにも海の気持ちは変わらないらしい。
「海くん、よろしく」
佐々木さんは満面の笑みで海に右手を差し出した。海はおずおずとしていたが、ゆっくりとその手を握り返した。顔が赤くなっている。
「照れてんの?」
「姉ちゃん!」
「はいはい、今晩はビーフシチューですよ」
「ほんと!」
「そこのお姉ちゃんも一緒に食べるからね」
私と海のやり取りをみて、にやにやしていた佐々木さんはそういわれると、弟に向かって親指を立てた。それを見て海も親指を立てる。
「ごはんができるまで、なんかして遊ぶか!」
佐々木さんが海に向かって言うと、海は顔を輝かせながら「ゲームしよう」と言った。
普段から海はゲームが好きなのだが、いかんせん私はゲームがへたくそで、海とやるとすぐに負けてしまう。海も張り合いがなくてつまらないらしいので、そのうち私たちは一緒にゲームをやることがなくなっていた。
「よし、なんのゲームやる?」
「これ!」
「お、それなら得意」
「じゃ、やろ」
リビングの大きいテレビに電源がつく。少しの間夕方の情報番組が映ったが、すぐに真っ黒な画面に変わってしまった。その一瞬の情報によると、明日は今日と同じように晴れらしい。
私は二人がゲームをしているようすを見ながらビーフシチューを作った。佐々木さんは、得意といった言葉に違わず、海といい勝負を繰り広げていた。もしかしたら、本当はもっとうまくて、手を抜いているのかもしれない。
「いい匂いが漂ってきた」
「腹減ったぁ」
目の前の画面を一心不乱に見つめながら、二人が声を上げた。
「もうすぐだから、我慢しな」
私は海に向かって言った。佐々木さんがこちらをちらりとみて少し笑った。
ビーフシチューが出来上がったのは、海が佐々木さんとゲームをやり始めて一時間ほどたったころだった。外は夕暮れと夜の中間のような明るさで、地平線の近くはオレンジ、真上は紫といった感じだった。
「はい、ご飯の用意を手伝うように」
海はその言葉を聞くと、シチューを分けている私の傍らで、素直にフランスパンを薄めに切ってバターを塗り始めた。佐々木さんが少しそわそわしている。
「どうかした?」
「私は、なにかすることないの?」
「お客さんじゃない」
「働いてる横でじっとしてるのも、居心地が悪いものだよ」
「それもそうか。……じゃあ、海がバターを塗ったパンをオーブンで焼いて」
「了解! ――海くん」
佐々木さんは海に向かって手をさしだした。それをみて海は佐々木さんに。
「はい」
と言ってお皿を渡した。彼女はそれを受け取るとオーブンの前まで向かって、中にパンを並べ始めた。それからダイヤルを回して、中が赤くなっていくのをじっと見ていた。
パンも無事焼き終わり香ばしい匂いが部屋を満たし始めた。焼き終わったパンをお皿に戻し、シチューと一緒にテーブルに乗せて、私たちは床に座った。
「いただきます」
まずは一口、と彼女がビーフシチューを口に入れた。しきりに頭を上下に動かし、うん、うん、と言っている。
「おいしい!」
それを聞いて、私もシチューに手を付けた。余計なことをしていないので、まずいわけがないことはわかっているが、それでも「おいしい」と言われると嬉しくなる。海も気に入ってくれているみたいだ。
ふと外を見ると、外は完全な夜になっていた。私につられて佐々木さんも外を見る。
「時間、大丈夫なの?」
大丈夫だから、佐々木さんはまだ私の家に居るのだろうが、一応聞いておく。そういえば、佐々木さんは私の家でご飯を食べることを誰にも知らせていないようだった。もしかしたら、佐々木さんも家ではなにかとあるのかもしれない。
「大丈夫だけど、迷惑だった?」
予想外のことを言われて驚いてしまった。
「そんなことないよ、ご飯に誘ったのは私だし、海とも遊んでくれて」
ちらりと海を見ると、ビーフシチューの器を持ってスープを全部飲み干そうとしているところだった。海は器をテーブルに置くと、佐々木さんを見た。
「この姉ちゃん、ゲームすごく上手だったよ。姉ちゃんとは大違い」
「海くん、今度またやろうね。その時は私、もっと強くなってるから」
「負けないから!」
こうしてみると、佐々木さんの方が海と相性がいいのかもしれない。二人は初対面にも関わらず、もうすっかり仲良くなっていた。人当たりのいい佐々木さんだから成せる技だろうか。
八時過ぎ、私たちはようやく食べ終わったご飯のお皿を洗って片づけていた。海がつけたテレビのバラエティ番組がお皿のかちゃかちゃという音と一緒に部屋に響く。タレントの嘘か本当かもわからない話に、おおげさに驚いて見せるあまり好きではない芸人の声が耳に障る。
「チャンネル、変えてもいい?」
そう聞くと、海も佐々木さんもうなずいた。チャンネルをころころと変えていくと、ある歌番組が目に付いたので、そこを見続けることにする。
「もう少しで夏休みだねぇ」
佐々木さんが私の渡すお皿を拭きながら誰に言うでもなく言った。海は私をちらりと見たが、佐々木さんから送られるお皿を棚に戻す作業を続けた。
「そうだねぇ。暑いんだろうなぁ、今年も」
海が言いたいことはわかっている。きっと、今年の夏もどこかにでかけるということはない。海にも、山にも、川にも遊園地にも。
両親の親、つまり私たちのおばあちゃんやおじいちゃん、なんてのは、私が生まれて少ししたらみんな死んでしまったので、田舎に行くということもない。
小学校低学年の頃は、それで毎年海が大騒ぎしていた。
なんで僕はどこにも連れて行ってもらえないのか。
本当なら、その言葉は親に向けられて、申し訳なく思うのは親のはずだ。けれど、海の嘆きは親には届かない。いつも家に居ないから届きようがない。だから、私が海の不満をいつも聞いていた。
私だって、同じだったのに。
私だって、寂しかったのに。
私の時は、聞いてくれる人なんかいなかった。
そういう不満が、なかったわけではない。けれど、私は目の前の弟を無碍にすることもできず、ひたすら弟をなだめていた。
「夏休み、と言えばさ」