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漕ぎ出した舟

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「例えば、沈黙が苦手なところとか。手持ち無沙汰になると時計を見る癖とか……」
「確かに自分は変わっていないかもしれない。だが、レイカちゃん、いや、もうちゃんと呼ぶ年じゃないな。レイカさんは随分変わったよ」
「どんな風に?」
「大人の女になった。それに美人になった」
レイカはにこりと笑い、「今、女優になりたいと思っているの」
「女優に?」
レイカは大きくうなずいた。
「まだ売れていないけど……絶対になる。そして悲しみを演じられる女優になる」
「悲しみを?」
「いっぱい経験したから」といって視線を避けた。
首筋に小さな痣がある。強く何か押さえたようなピンク色の痣である。田中には、それがキスマークのように見えた。
「でも、あいつには言わないで」
もう、十年前のレイカではない。大人の女だ。いくら頼まれたといえ他人の生活に首を突っ込むべきことではない、と田中は何度も心の中で呟いた。
しばらくして、「帰る」と田中は言った。
「また、遊びに来てよ。田中のおじさま。その前に携帯番号を教えてよ」とメモ用紙とペンを田中に差し出した。

田中は豪放磊落で楽天的人間といわれてきた。本人もまたそれを信条として、何事にもこだわらず生きようとしてきた。しかし、本当は違っていた。寧ろ、細かなことを気にするタイプだった。それになるべく人に悟られないように演じているだけだった。レイカのことも気になってしまい、忘れようとすればするほど、ますます頭の片隅から離れなくなってしまった。講義をしても、ふいにレイカのことが脳裡を過るようになった。
「どうしたのかね?」と学部長の山際が廊下で声をかけた。
「え、何が、でしょう?」と慌てて返答した。
「チャックが開いているんだよ」と小声と囁いた。
田中は慌ててチャックを閉めた。
「おい、まさか家を出てきたから、ずっと開きっ放しじゃないだろうな」
田中の顔が赤くなった。
「違います、学部長」
「なら、良いけどね、女子大生には眼の毒だ。気をつけろ、今、ちょうど君を教授に推薦しているところだ、チャックも満足に閉められない奴は、教授にはなれないぞ」と学長は笑いながら肩を叩いた。
田中は有り難うございます、と言って深々とお辞儀をした。教授の椅子、それを夢に見なかったといったら嘘になる。あらためて、教授になるために、余計なことはしない。詰まらぬことに首を突っ込むと自戒した。しかし、遠い昔のあどけない顔がレイカの顔が離れない……。

田中の携帯が鳴った。レイカからだった。電話に出ると、「相談したいことがあるから来て」と言った。
レイカの部屋を訪れた。前と同じように薄いカーテンが閉じられ、外から音が何も聞こえてこない。不思議な沈黙が支配する部屋である。
レイカは薄いピンク色の薄いシャツを着ていた。その下は何も着ていないのであろう、乳房の輪郭があらわになっている。
「桜を観にいったことを覚えている」
「桜を観に一緒に行ったことがあったかな?」と声は少し上擦っている。
「忘れたの? 十年前のこと?」
「忘れた。それより何の相談だ?」
「相談というより、寂しくて話をしたかったの」と甘えるように応えた。
苦手だ。対等で若い女性と話をするのは、何も話題すべきことはないし、大学の助教授という肩書も役に立たない。……汗は少し滲んできた。レイカは気づいただろうか。それに眼のやり場がない。
「顔色があまり良くないけど、どうしたの?」
「正直な話、来るべきではなかったと後悔している」
「嫌いなの?」
「いや、そんなことはない」と笑みを浮かべた。
「良かった」と手を合わせた。
そうだ、幼い頃、レイカは本当に嬉しいことがあると、条件反射のようによく手を合わせた。
「わたしが小学生のとき、場所は忘れたけど、田中のおじさんが河に連れて行ってくれた。小さな渡し船があった。風もないのに花びらが散っていた。花冷えのする日で河には薄い靄が出ていた」
「そういえば、そんなこともあったな、十年前、確かそうだ」
沈黙した。
「聞きたいことが一つある」
「なあに? おじさま」
「今、何をして食べている?」
レイカは大きな瞳で相手をじっと見る。何かをねだるとき、相手を試すとき、瞳が大きく見開く。手は組んで指がちょっと遊んでいる。
「秘密」としばらくして笑った。
「普通の仕事をしているのかい?」
「普通の仕事って、どんな仕事をいうの?」
田中は言葉を窮した。
「例えば、昼間、ちゃんとした会社に勤めるとか」
「おじさまは法学の先生にしては、ちっとも明快じゃない」
また言葉を窮した。
「からかうのはよしてくれ、レイカちゃん、いやレイカさんのことが心配なだけだ」と少し怒った。
「ごめんなさい」と今にも泣き出しそうな顔になった。それが嘘っぽいと知りつつも、優しくせざるをえない。
「別に怒っているわけじゃない。本当だよ、心配なだけなんだ」
「分かっている」と、にこりと笑った。
「クラブで働いているの」
「クラブって夜の店の、飲み屋のことかい?」
レイカは大きくうなずいた。 
それから、昔話に花を咲かせた。

田中がレイカの部屋を出たとき、既に夜になっていた。時計をしょっちゅう気にしていた割には時間を忘れていた。
公園に差し掛かったところで足をとめた。桜が風に揺れていた。その様を感慨深げに眺めたのである。
桜は鮮やかに咲き、あっという間に散る。咲いた時もいいが、その散り際の見事さもまた格別である。桜のように見事な人生を送りたい、田中は桜の季節になるといつもそう思わずにはいられなかった。しかし、現実はどろどろとしていて、ちっぽけなことにしがみついていた。出来の悪い先輩教授の胡麻をすり、大酒飲みの学部長の御機嫌をとるために酒の席で詰まらぬ芸を演じたこともある。その度ごとに自分の意地汚さに呆れた。だか、その時は違っていた。美しい花びらの軽やかに踊るような舞の向こう側にレイカの横顔を見ていたのである。
 
田中には、四十になったばかりの妻の靖子と二人の娘がいた。娘達は食事を済ませると、すぐに部屋に戻る。二人とも何を考え、何を悩んでいるのか、考えたこともないし、聞いたこともない。しかし、娘たちがどう思っているかは知らないが、自分が大きな樹のように枝を広げ雨や風をしのいでやっているから、靖子も娘たちも健やかな暮らしができる、そういった自負があった。自負はあったが、向こうがそう思っているかどうかは怪しい。例えば、遅く帰ったときなど、誰も帰りを待ってくれず、みな寝ている。また食事だって早く済ませるのはしょっちゅうだ。その夜もそうであった。
布団に入ってから、靖子が求めてきた。しかし、田中は断った。なおも靖子はしつこく求めてきたが、「疲れているからよせ」と怒かった。実際に鬱陶しかったのであるが、靖子はその声に驚き何も言わずに背を向けた。女にも男と同様に性欲がある。それは事実として認めたにしても、靖子の性欲の貪欲さには、田中は辟易させられた。娘が成長するにつれ、自分の性欲が落ちていくのに、靖子の方はむしろ高まっていっているようにさえ思えた。それが妙に腹が立つのである。
「ねえ、もう寝たの?」と靖子の声がした。
「ああ、もう寝た」
「最近、あなたおかしいわ」
作品名:漕ぎ出した舟 作家名:楡井英夫