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Savior 第一部 救世主と魔女Ⅴ

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 理不尽だ。滴る血を拭うことすらせず、ディックはぼんやりと空を見た。毎日毎日必死に働いて。母の世話をして。それなのに貧民街の住民達に殴られて、教会に約束を破られて、錯乱した母に罵られて。一体どうして、こんな仕打ちを受けなければならないのだろう。窓の外を見ると、昼間なのにスミルナはどんどん暗くなっていく。黒い靄のような悪魔がスミルナから噴き出している。ああ。あの無慈悲な教会が統べる神聖都市スミルナも、悪魔に飲まれて滅びようとしている。じき、この貧民街も悪魔に飲まれるだろう。おしまいだ。せめて、苦しまずに死ねたらいい。赤い閃光が奔るスミルナの空を見上げながら、ディックは静かに絶望へ身を浸した。
 その時、虹色を帯びた閃光がスミルナから立ち上った。
 その光は黒い靄を貫いて、スミルナに巣食う悪魔を悉く打ち砕いていった。眩しくて、温かくて、美しい光。荒々しくて、けれどどこか優しい光。これはひょっとして、“救世主”の光ではないか。絶望に沈みかけていたディックの脳裏に、ある噂話が蘇った。
 神の聖典が預言する通り、その眩い光で罪人を分け隔てなく救う“救世主”が現れた、と。
 “救世主”は本当にいた。預言通り現れ、今、スミルナを救っている。慈悲深き神の子なら、罪人たるディック達をも救ってくれるだろう。救われる。悪魔に憑かれた母が、この最悪の状況から、救われる。その希望を胸に、ディックは眩い虹の光を振り仰いだ。救われるその時を、ただじっと待ち続けた。
 けれど、待ちわびたその時は来なかった。
 虹の光は悪魔が完全に消滅すると同時に掻き消えて、こちらには欠片も注いでこなかった。あの光はスミルナだけを救って、貧民街を救ってくれなどしなかった。待ってみても、救いの光は一向にやって来ない。一度灯った希望が潰えるのに、そう時間はかからなかった。
 どうしてだ。“救世主”は罪人をも救ってくれるのではなかったのか。
 取り憑かれたままの母の奇声を聞きながら、ディックは問いを繰り返した。
 どうしてだ。どうして助けてくれない。どうして救ってくれない。一体、オレが何をしたというんだ。殴られて、罵られて、希望を打ち砕かれて。そうされて当然の罪を犯したとでもいうのだろうか。異邦人の血が流れているから? 穢れた罪人だから? そんなこと、オレのせいじゃないのに。理不尽だ。この世界は理不尽で、
 憎くてたまらない。
 憎い。異邦人とのあいのこと蔑んで、些細なことで殴りつけてくる貧民街の住民達(あいつら)が憎い。一度は祓魔の秘蹟を授けると明言しておきながら、約束を破った悪魔祓い師が憎い。自分を捨てた父親が憎い。いつまでも父の影を追っている母親が憎い。秘蹟を受けられるかもと希望を持つきっかけになった、あの二人の漂流者が憎い。すぐ近くにいるのに、救ってくれない“救世主”が憎い。教会が、神様が、アルヴィアが、ミガーが、この世の全てが憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!
 こんな理不尽な世界は、
 ――滅ンデシマエバイイノニ。
 そうだ。滅んでしまえばいい。
 ――ゼンブ無クナッテシマエバイイノニ。
 そうだ。なくなってしまえばいい。
 ――ナラ、イッショニイコウ。イッショニコノ世界ヲ滅ボソウヨ。
 世界を、滅ぼす? どうやって? そんなこと、できるわけがない。
 ――デキルヨ。イッショニキテクレルナラ、世界ヲ滅ボスチカラヲアゲル。
 力? 力をくれるのか?
 ――ソウ、アゲルヨ。チカラガアレバ、モウ虐ゲラレルコトモナイ。ガマンスルコトモナインダヨ。
 もう虐げられない。我慢しなくていい――
 ――ダカライッショニオイデ。イッショニ、
 ――闇ノ中へ
 オレは――
 ――イッショニ
 行く。
 行って、この理不尽な世界を滅ぼすんだ!
 その瞬間、嗤い声が聞こえた。歓喜するような、祝福するような、冷たく狂った嗤い声だった。
 ――ようこそ。悪魔を奉ずる者の元へ。
 黒い靄が、視界を真っ黒に染め上げた。



 炎が燃えていた。
 寒風吹きすさぶ村の外れで、炎が赤々と燃えていた。揺れる炎からは黒い煙がもうもうと上がり、冷たい風に吹き流されて村をうす暗く覆っている。煙と共に流れてくるのは肉の焼ける酷い臭い。村の陰鬱な空気を、煙と匂いがさらに暗く彩っている。だがそんなことを気に留めてなどいられない。気分が悪くなるような悪臭の中、ただ燃える炎を見つめてじっと立ち尽くしていた。
 世界がぐわんぐわんと揺れていた。今にも深い水底に沈んでいきそうだった。後悔と罪悪感ばかりが襲ってくる。どうすればよかったんだろう。何が正しかったんだろう。そればかり考えて、ただただ苦しかった。
「お前は死神だって言われた」
 近づいてきた人物の気配を感じながらも、振り返らず独り言のように呟く。言葉は重たく地に落ちて、足元に突き刺さる。けれど心はちっとも軽くならない。重たいものを吐き出しても、さらにのしかかってくるばかり。
「お前は呪われている。お前さえいなければ。って言われた」
 そんなつもりはなかった。ただ、いつも優しくしてくれるおじさんが悪魔に取り憑かれていると知って、黙っているなんていられなかった。まだ軽いうちなら何とかなるかもしれない。まだ間に合うかもしれない。そう思ったら、何も言わないわけにはいられなくて。でも、
 どうにもできない。どうにもならない。
 何故なら、祈りの日に労働する者――聖典の教義に従わぬ者は、祓魔の秘跡を受けるに値しないから。神に救われる資格がない者が悪魔に魅入られたら、たどる末路はただ一つ。
 けれど、この時はそれを理解できていなかった。子供らしい、愚かな純粋さが良かれと思って忠告させた。慈悲深い神は、その僕たる教会は、日々懸命に働く優しい隣人を助けてくれるはずだと。
 そんな愚かな子供に、隣人とその妻は言った。
 死神め。消えてしまえ――と。
「死神だから、生きてたら駄目なのかな……?」
 誰かに死をもたらすなら、いない方がいいのかな。取り返しようのない失態と慕っていた人達の拒絶が苦しくてやるせなくて、「いない方がいい」というのは正しいのではないかと思えてくる。
 そう、このまま消えてしまえたらいいのに――
「そんなことを言ってはいけないよ」
 優しい声が頭の上から降ってきた。振り返ると、声の主は声と同じ優しい目でこちらを見下ろしている。
「どんな力を持っていようとも、お前は一人の人間で、父さんと母さんの大切な子だ。傷ついて欲しくないし、生きていたら駄目なんて言ってほしくない」
 父はしゃがんで目線を合わせ、穏やかに語る。厳しい労働と乏しい食事のせいで頬はこけているけれど、その瞳は確かな輝きを持っていた。