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k街の弁護士

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僕はこの街が嫌いだ。
窓から見下ろす往来には、のっぺりとした顔の、醜悪で、下卑た、もう何年も昔に死んでしまった人々が、のそのそと下を向いて歩いてゆくのが見える。街は灰色に淀み、完全に寂れきって、死骸のような……この街には輝ける何ものも存在しない。存在しえない。

久々の仕事の休みに、心癒される景色がないというのはやりきれない。
胸のむかつくような往来を見つめながら、僕は僕の仕事について考えた。弁護士という仕事。たしかに地位も給料も悪くない仕事ではあるが、僕はこの仕事にはもうほとほと嫌気がさしている。仕事相手はどうしようもない連中ばかりだし、裁判に勝ったところで、得られるものは金と、苦い虚無感しかない。この街の連中は皆既に死んでしまっているか、あるいは死にかけた連中ばかりだ。そんな人間を相手に正気で仕事をやれるはずがないのだ。どいつもこいつも、自分のことしか考えられない狡猾な奴らばかりだ。裁判所の連中だって例外ではない。金と欲にまみれて、碌な仕事をしやしない。
そんなことを考えながら、僕は深く溜息を吐いた。僕の休日はいつも、こんな風に憂鬱。
僕は明るいことを考えようと努めた。この街で唯一純真な心を持った生きた人間、美しい彼女のことを考えた。僕は先日に彼女に婚約を申し込んだばかりだ。彼女は恥じらいながらも嬉しそうに、僕との婚約を承諾してくれた。今では彼女が僕のたったひとつの希望である。僕は彼女がいなければ本当に死んでしまうかもしれない。

奥の部屋から低い声が、地鳴りのように響いた。それは僕の名を呼んでいた。
父だ。
僕の父親は、この街と同じように、この街とともに、死んだ人だった。見るも無残に老い、ただベッドの上に寝たまま、物を食べては排泄する生活をもう何年も続けている。その上、最近では頭もはっきりしないのか、呆けたようなことばかりをやたら口走るようになった。僕がこの街に縛り付けられているのはこの父がいるからだ。結局のところ、僕には父を見放す勇気なんかないのだ。
僕はおもむろに、父の部屋に入った。幾ら掃除してもすえた悪臭が消えない部屋。湿って暗い。ぼろぼろのベッド。食い散らかした食事が卓の上。父の眼は鋭く光っている。

「なんだい、父さん」

「なんだいとは何だ、はやく片付けんか」

父は汚れた食器を顎で指した。

「何年このままにしたら気が済むんだ。いい加減片付けたらどうなんだ」

「わかったよ、父さん。いま片付けるから」

ベッドに据え付けられたテーブルの上、散らかった食器に僕が触れようとすると、父は僕の手をピシャと叩いた。

「そうじゃないだろう、そうじゃない」

僕は椅子に腰かけ、黙って父を見つめた。老いはただ苦しみでしかない。そんな言葉が浮かんだ。
父は泣いていた。涙は、しわくちゃの顔にすぐに浸みこんでいった。

「お前はいつになったら、一人前になる。俺はお前をちゃんと育ててきたつもりだったぞ。それが、それがこんな……。毎日毎日、お前は自分の部屋に籠りきって出てきやしない。何年もだ。何年も!皆お前が死んでしまったと思っとるぞ。最近じゃ俺までも、父親である俺さえも息子はいないもだと考えるようになってきた。お前は、小さい頃は本当に利発な子だった。しかし、何年も前、母さんが死んでから、お前はすっかり変わってしまった。弁護士になるという夢はどうなった、あの頃のお前はどこにいったんだ。俺はもう限界だ。俺が築いた財産を、お前が一人で食い潰す。そのくせ俺の世話などまるでしない。この通り俺も年をとったんだ。俺はもう限界だよ。もうお前に出て行ってもらうしかない。お前はもう死んだんだよ、俺の自慢の息子はもう死んだんだ。この街から出て行け、今すぐに!」

僕の心の中には、怒りも、悲しみも、何も無かった。ただの荒野であった。言葉の一つすら存在しない、存在しえない、そんな荒野であった。僕は立ち上がり、腰かけていた椅子を両手に持ちあげると、それを力の限り父に向って振り下ろした。鈍い音がして、父は動かなくなった。
湿って暗い。僕は台所で一番切れる包丁を選び、それをジャケットの懐に隠した。
僕は家を飛び出し、それから灰色の往来を駆けた。

すれ違う人々は、奇怪なものでも見るように怯えた顔で僕を眺めた。のっぺりとした顔の、醜悪で、下卑た、もう何年も昔に死んでしまった人々。
僕は彼女の家まで駆けてゆき、彼女の家の呼び鈴を鳴らした。
すると、使用人らしき老婆が出てきた。

「あの、どちらさまでしょう」

僕は言葉を持たなかった。死人は何も話しはしない。
老婆は何かにはっと気づいたような顔をした後で、腰をぬかしてしまった。何かを言おうとしているが、恐怖がそれを遮るといった風だ。
僕は包丁で老婆の胸を何度か刺した。老婆は奇妙な悲鳴を上げて、それから動かなくなった。
ふと気づくと、玄関のドアの前には彼女が青ざめた表情で突っ立ていた。彼女は僕を怯えた目で見た。街の連中と同じように、奇怪なもの、幽霊にでも遭遇してしまったかのような目で僕を見た。そして恐怖を貫いて、絞り出した悲鳴に、僕の知らない男の名前を彼女は叫んだ。僕は彼女も刺した。僕の心の中には、何ら感情がなかった。言葉すらなかった。僕は自分の首に包丁を当てた。涙が溢れた。涙が止まらなかった。

この街には輝ける何ものも存在しない。存在しえない。
僕はこの街が嫌いだ。





作品名:k街の弁護士 作家名:machiruda