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サルバドール
サルバドール
novelistID. 32508
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少なくとも、彼の場合

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美舛晴敏は昭和30年生まれの59歳。団塊の世代の後に登場した、所謂、「しらけ世代」と呼ばれる人種である。

 日本で55年体制が確立した年、東京足立区の貧家に六男五女の末っ子として生を受けた。帝国軍人であった父は晴敏をその胸に抱くことなく病死したため、美舛家は、国家から支給される遺族年金と母・貴恵の得る僅かの収入によって、赤貧を洗うような倹しい暮らしを強いられた。

 そんな生活の中で晴敏が夢見たのは、父親が当たり前のようにいる家庭を築くこと、そして、その家庭が家長たる父親によって永遠に幸福であり続けることであった。当たり前のことだが、その為には父親が家族全員によって尊敬されることが前提になければならない。しかしながら、父権の崩壊した現代において、そんなものは言うまでもなく、幻想であり、夢物語である。

 昭和52年に結婚・就職を経て一男一女を設け、家庭においては良き父、社会においては良き上司たらんとして頑張ってきた晴敏も、37年の月日を経てみれば、唯、世間体を気にするだけの気の小さい人間に過ぎなかったことが分かり、その温水洋一みたいな容姿も災いして、家庭からも、社会からも見放された存在となっている。

 普通ならば自殺するだろう。筆者ならば、間違いなくそうすると思う。しかし、彼がそうしないのは、この空蝉に己の全てを捧げてでも守りたい存在があるからであった。その人こそ、誰あろう、長女の美舛晴菜である。

 晴菜は、同じ犬に二回噛まれたことがあるなど、母親に似てちょっぴり残念なところがあるが、クソ生意気な長男の美舛晴彦とは違って控えめで、父親想いの優しいところがある。

 今年の父の日、晴菜は、父親への周囲の扱いが余りに雑なことを不憫に思い、「たまにはゆっくりしたら?」とディズニーランドの年間パスをプレゼントした。ディズニーランドなるテーマパークはおっさんが一人で行くにはあまりにも広大で幻想的に過ぎたが、その好意は素直に嬉しかった。

 そんな娘に身を固めてほしいと思うのは父親として自然の感情であり、そのために彼の人生があると言ってよかった。しかし、当の晴菜には結婚する意志はないらしく、30に近い年齢だというのに、浮いた話が未だにない。晴敏が酷く気を揉んでいるのはそのためである。

 長男の晴彦も、近所に住む美人精神科医の本郷美咲先生も、「結婚だけが人生の目的ではない」と言うが、娘の将来を思うからこそ、晴敏は晴菜にありふれた幸せを掴んでほしいと願っているのである

 しかし、日頃は晴敏の理解者であるはずの晴菜も、この問題に関してだけは譲る姿勢を見せず、事あるごとに見合いを勧める彼や妻の美舛藍子を煙に巻くのだった。その晴菜が、どういう風の吹き回しか、「紹介したい人がいる」と自ら言ってきた時には、胸を撫で下ろした反面、得も言われぬ胸騒ぎを覚えた。

 その次の土曜日、晴敏は、ドンキホーテで1980円で買ったヨレヨレのジャージを着て勇躍、外へ飛び出した。向かった先は、「光栄ジム」なるボクシングジムである。

 そこは数多の世界チャンピオンを生み出したことで知られ、最近ではGID(性同一性障害)当事者のボクサー、星野馨をプロデビューさせたことで世間の関心を集めていた。そんなところへ通い出したそもそものきっかけは、そこでシェイプアップボクシングなるものをやっている美咲から直接勧められたためであった。

 最近、会社の周辺では、中高年を狙った暴行恐喝事件が頻発している。もし万一被害に遭った時、ある程度、自己防衛できるよう、日頃から身体を鍛えておかなければならない。というのは完全に建前だが、内心では、下っ腹の出た醜い体型をこの機会に絞りたいと考えていて、勿論、そのことは家族には内緒にしているが、近所に住む迷惑な隣人、諸見里信子だけは何故か知っており、いつバラされるかと気が気でならない。今日も晴敏は、この面倒臭いおばさんのお喋りを巧く交わして荒川の土手に躍り出て、ロードワーク中の馨と顔を合わせた。馨の明瞭で礼儀正しい態度は、いつもながら、晴敏を恐縮させ、無遠慮な偏見をも抱かせるのだった。

 馨とは、その後、ボクシングジムでも顔を合わせた。馨は、現在、来たるべき世界王座獲得の為に毎日、激しい練習に勤しんでいる。このジムの入会希望者が最近増え続けているのは、彼の勇姿が良い意味でも悪い意味でも余人を惹きつけるからだ。美人女医の美咲先生もまたその一人であった。というより、馨は美咲先生の元患者で、彼に性転換手術を勧めた張本人こそ美咲先生だったのである。
美咲先生は、馨から常々、現在付き合っている恋人のことで相談を受けていた。その恋人の親に近々顔を見せに行くのだという。

 そんな話を晴敏が右から左へ聞き流していると、ジムのガラス張りの扉の向こうに、痩せぎすの女が周囲を憚るようにして現れた。そのエスパー魔美みたいな髪型の、パフュームののっちに似た女は長女の晴菜その人に違いなかった。父と娘はガラス越しにお互いの目が吸い付きそうになるほど視線を合わせた。晴菜は、すぐさま踵を返して駆けていき、道端に落ちていたバナナの皮を踏んで見事にすっ転んだ。

「あれ、娘さんですよね?」

そう問うた美咲先生に、晴敏は、「ええ」と間抜けな返事を返すにとどめた。

 次の日の正午、晴菜が馨を連れて自宅へやってきた時、晴敏は、かねてから抱いていた不安が、自分の想像を遥かに超えて複雑だったのを知り、絶句した。晴菜の相手はあのジムの中の誰かかもしれないというのはある程度覚悟していた。しかし、その誰かが馨だというところまでは想像が及ばなかった。馨は、自らの生い立ちも含めて、晴菜と交際に至った経緯を話し始めた。

 北海道の旭川に生を受けた馨は、物心ついた時から己の性自認と身体的性別の相違に違和感を抱き、それは、長じるにつれて、周囲からの容赦ない偏見と人格攻撃を招くほどに大きくなっていった。自分は男性として生きていきたいのに身体的には女性であるという矛盾、それこそが世間をして彼に女性として生き続けることを強要せしめ、自殺への誘惑さえも駆り立てた。その彼を現世へと繋ぎ止めた者こそ、他ならぬ、晴菜その人だったのである。本来なら、同じ大学の先輩後輩という間柄だけで顔も合わせることもなかったであろう彼らが、ボクシングというスポーツを通じて相まみえたのは、今から思えば、まさに天の配剤と言えた。声を掛けたのは、当時、ボクシングサークルのマネージャーを担当していた晴菜であった。あの時、その一声さえなければ、馨は、己の存在に憎悪を覚えたまま、その一生を終わらせていたに違いない。事実、その運命的な日から、彼は水を得た魚のようにボクシングに打ち込むようになり、いつしか、それを、男性として生きていくための一つの証と見立てるようになった。晴菜への愛情はその過程において育まれ、また一方の晴菜自身も、彼を掛け替えのない一人の男性として尊敬し、惜しみない愛情を注ぎ始めた。その二人が性別の壁を越えて結婚という到達点に向けて動き始めたのは、至極、当然の流れだったと言えるだろう。だが、そんなものは、頭の固い晴敏からすれば、到底、理解できない話だった。