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十月二十一日

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「あなたは神に祈れば届くと思いますか」
 宅配業者だと思ったら神の使いだった。
 溜め息一つ吐けぬ私に、神の使いを自任するその女は、鞄からパンフレットらしきものを取り出す。今わたくしどもパンフレットをお配りしておりましてこういった神様をあなたは信じていらっしゃいますかとあの独特の語り口上をすらすらのべつ幕無し、繰り出したのが「神に祈れば救われる」云々である。
 今朝から私は発熱していた。前夜に泣き腫らした分、目が腫れて、随分幸福に餓えた眼をしていたことと思う。私を見つめるあの例の清潔感溢れる顔つきは憎々しいほど純白に輝いている。清廉潔白と言いたげな香水の匂いが玄関の中にまで入り込んで来、澱んだ空気をその清浄さで侵して行く。私は甚く不愉快であった。
 頭の中には種々の雑言が犇めく。神は居ない、というのがその口火である。私は〈不幸にも〉無神論者である。だが、第一あなたがたの信じる神とやらに私は既にいくらでも祈ってきたのだ。けれども一度たりとも届いたことがない。それはたとえば、私が祈りのつもりでしたためてきたのは、宛名の無い手紙であったということかもしれない。宛名が無ければ届かない、届かないなら意味は無い。では、あなたがたこそ正しい宛名をご存知なのか。私に纏わり私を苛む咎について、救われる目処があるのならば、私は幾らでもこれからも祈ろうと思う。だが、それが無意味であった場合は? それはあなたたちの言う「祈り」とはどのように異なるのだろう。今、私の頭の中は悲鳴で溢れ返っている。頭脳に刻まれた皺全てに飾り縫いを施したが如く、意識は無意識に次々針を通し、無意識を意識へと変えて、それらは隙間無く緊密に結び付けられ、〈私〉を鮮やかなステッチで現実に縛り付ける。だから、私は何があろうと正気だった。ただし酷く愚鈍であった。それこそが、私の受難であった。この悲鳴こそが神の授けたもうた試練ならば、今すぐにでも止めさせてくれ。狡猾な競争も愚昧な好悪も無い時空間に往かせてくれ。安らかな祈りとやらで満たしてくれ。もう沢山だ、沢山なのだ、等々思い浮かんだが、私は一言たりとも喚かなかった。そのように考えさせられること自体、今私が不幸であり、人生の全てに疲れ切っていることの証左であった。この苦しみを見知らぬこの女に開放するのは、いかにも愚にも付かぬことに思えた。
「いや。思いませんね」
 ただ一言、私は吐き出すと、玄関の扉を普段より乱暴に閉め、わざと音を立てて鍵を掛けた。二人の通路は永劫閉ざされたかに思われたが、私はこの女のせいで酷い脱力感に襲われた。今や、神も名誉も愛も恋も、全てがわずらわしかった。昨夜狂乱を〈演じてみせた〉ばかりで――私は自分が正気であるという自覚がありながら、制御不能の狂気に陥ることがあった――私の頭は今もはち切れんばかりの自意識に脅され続けている。
 ひとでなし、ろくでなし、ごくつぶし、ひとごろし……。
 今も、怯えは血の中で沸騰していた。私の自意識はそろそろと……しかし、その実無遠慮に、空間の余白へ触手を延ばしていく。針の先に触れる寸前の緊張と、突き刺した後、鮮血が浮き出るまでの痺れるような痛覚の中、私は立ち竦んでいた。弱い電流のような痺れが尾てい骨の辺りから上って来、首の裏を這い回る。息苦しさを感じる。好くない傾向だった。
 ふと、誰も居ない家の片隅から強烈に視線を感じることがある。現に私が立っている玄関には女が棲み着いていて、真夜中自室の扉を開けたまま日記をしたためている最中にふと振り返ると、其処に立って居たりする。妙に落ち着かない気分の時はそいつのせいである。居間の床に無気力な身体を横たえ、廊下を茫然と見ていると、時折陰から這いずってくる。起き上がると忽ち消える。そのように私は思い込んでいる。思い込んでいる自分を知っている。そういう私を、今も女は見ている。……はて。
 立ち去っていった音がしない。私は覗き窓から外を見る。あの女の姿は無い。後ろを見た。無論居ない。上に居た。先程の勧誘女が蜘蛛の様に天井に張り付いていたのだ。
「残念です」
 うわあと悲鳴をあげて仰け反った拍子、コンクリートの床に強か尻餅を衝いた。女は煙のように消えた。足音が去っていき、アパートには静寂が戻った。
 暫く震えが止まらなかった。ポケットの携帯電話が震えた。その微細な振動によって地面が揺れ、砕け、そのような破滅に呑み込まれ、世界は崩れていくような気がした。狭い玄関の暗闇が増幅し、私を繭のようにゆっくりと包(くる)んでいく。駄々を通そうとしてとうとう置いていかれた子供のように、私は蹲ったまま暫く泣いた。私の眼からは涙が止め処なく流れ、この家を水浸しにした挙句、私は孤独な繭の中で溺れていくに違いなかった。
 祈れない者の烙印は私には重過ぎる。
 携帯電話に届いたのは結局メールマガジンだった。家族は当分帰ってきそうにない。私には連絡を取る友も居ない。皆忙しい。誰も居ない。誰も居ない……今傍に居るのは彼女だけだ。私の頭の中に棲み付いた……。
 後ろに立った彼女が私の首を絞め始める。十指のうち、親指が的確に気道を捉える。縄のように喰い込んで締め上げていく。しかし私は今日も生きるに違いない。今日も死ねないに違いない。昨日も死ねなかったのだから。案の定、苦しくてじたばたしたら女は何処かへ行ってしまった。私は甚く疲労している。肉体の重みに耐え切れず、その場にくずおれ私は倒れ伏す。汗ばんだ頬に土が付いた。コンクリートの冷たさは、上気した身体に心地好かった。
 意識が朦朧とし始めた。このまま眠らせて欲しかった。だが、眠りに就くまで、私は試しに祈ってみた。世界が滅亡するように祈った。そういう人間が此処に居るのだぞ、と、腹の底から叫びたかった。
作品名:十月二十一日 作家名:彩杜