別れの印
夏の熱い日の昼下がりに、マナミは恋人の真一のアパートを訪ねた。
「相変わらず殺風景な部屋ね」と持ってきた薔薇の花を活けながらマナミは呟いた。
真一はタバコをくわえ、パンツとランニングシャツ姿で絵を夢中に描いていた。マナミの呟きは耳に入らなかった。
マナミは画架の前に立った。汗ばんだ香水の臭いを真一は感じた。
「ちょっと聞いて欲しいことがあるの」と、マナミは悲しそうな笑みを浮かべた。
「その前にコーヒーが飲みたいな」と言うと、マナミは駄目という意味の首を振った。そして俯きがちに、それは囁くように、
「私はあなたについていけないの……」
「どういう意味だ？」
「私はもう二十七よ」
「知っている、俺と同じじゃないか」
「違う、男と女は違う……男は二十七でも三十七でも……いいえ、幾つになっても、たぶん、死ぬまで、夢を追い続けることができる。でも、女は違う」
夏の白い雲を眺めるかのように、マナミは窓辺に近寄った。
「田舎に帰って結婚しようと思っているの」
真一は冗談を言っているのだと思った。が、彼女の目を見たとき、冗談じゃないことに直ぐに気づいた。どう言えばいいのか分からず黙った。それはマナミもまた同じだった。
どれほどの時間が過ぎたことだろう。
突然、真一がマナミの頬にキスした。マナミは慌てて身を離した。
「だめよ。別れる決心は変わらないの。今日、それを言いに来たの」
マナミはじっと真一を見た。もし、結婚をやめろと言ってくれたなら、喜んでそうしただろう。それを期待してきた節がある。
だが、真一はどうでもよさそうに「じゃ、幸せになりな」と朗らかに手を振った。
「ありがとう」と呟いてヤツミは部屋を出た。
部屋を出た後、「ばか！」とアパートの壁を蹴った。壁に大きな穴が空いた。それが五年続いた愛の終わりの印だ。