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愛人契約

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『愛人契約』

初老の秋山寅蔵は精悍な顔つきと体型をしている。大工とかそういった肉体労働者のようにも見えるが、肉体労働など一度もしたことがなかった。ただ趣味で山登りを続けたりして肉体を鍛えている結果そう見えるに過ぎない。資産家でもある。若いときに会社を興して大儲けをしたという噂であったが、実際は資産家になる道は決して平たんではなかった。何度も多額の借金を抱えたこともあった。そのせいで、一緒に金策に走った妻は精神的に追い詰められ自殺した。妻を深く愛していたのであろう、二度と結婚することはしなかった。その代わりに愛人を囲っている。三十代のときは、同時に三人いた時もあったが、さすが五十過ぎてからは、体力的に一人で十分になった。昔は性欲が尽きぬ井戸のように汲めども汲み尽されることはなかったが、今は枯れ始めている。

晩秋、その日は朝からあいにくの雨だった。
 玄関先で、「雨はいつまで続くのか」と秋山は美恵子に聞いた。
 今は家政婦として秋山を世話している美恵子はかつて愛人であった。三十五を過ぎてからは愛人関係が消滅した。そのまま別れてもよかったが、天涯孤独の身ある彼女を哀れと思って、秋山は身の回りの世話をさせている。もう十年が過ぎている。今ではあうんの呼吸で世話をしている。
「今週末まで雨のようです」と美恵子は答えた。
「そうか」とつぶやき、玄関の戸を開けた。
迎えに来た車に乗り込むとき、「ところで、今日は戻らない」と言うと美恵子はうなずいた。若い愛人と会うのだと理解した。愛人の存在を知っていても、どんな名前でどんな素性の女かを知らなかったし、また知ろうともしなかった。それが家政婦として仕えるルールだった。
今の愛人の名は美咲とって、今年二十九歳になる。一時、女優になろうという夢を持っていたが、挫折しホステスをしていたところを、秋山に囲われたのである。
少し繁華街から離れている雑居ビルの二階にある喫茶店でいつものように美咲を待っていた。待つ間、コーヒーを飲みながら外を眺めるのが好きだった。
喫茶店に入ってから三十分経った。夕暮が迫り、街灯がつき始めた。白い服に白いブーツの美咲が現れた。眩しいほど美しい。彼女は座ると、すかさずウェイトレスが近づいた。ウェイトレスがメニューを出す前に、「ホットコーヒー」と注文した。ウェイトレスは水を置いて去る。
口火を切ったのは彼女の方だ。
「今日は暖かいね」と。
「そうだな。まだ秋という感じがしない。去年とはまるで違う」
 彼女は微笑んだ。
「どんなふうに?」
「覚えていない?」
彼女はうなずく。
「去年は秋が来る前に冬がきたような感じだったな」
「そうだった? 全然覚えていない」と美咲はほほ笑んだ。
美咲は、日々の生活に追われているせいもあるが、自分のこと以外のことに全く関心がない。
「昨日は何をしていた?」といつものように秋山は聞いた。
「覚えていない。酔っ払っていたのは、間違いないと思うけど」と美咲は笑った。
美咲は秋山と愛人契約を結んでいて、それだけでも十分生活できたはずだが、ホステス業もしている。酒と男とおしゃべりが好きだからホステスを天職だと言っている。秋山はその方がいいと思っている。なぜなら、もともと体が目的の関係だから、早いか遅いかは別として、飽きて別れる時が必ずやって来るからである。そのとき、愛人だけの生活であれば、先のことを心配してやる必要もあるだろうが、ホステスをしていればホステス業だけで生きていけるはずだから生活の心配をしてやる必要がないからである。ただ秋山は美咲があまりにも自由奔放に生きていることに苦々しく思っている。まるで、世界が自分中心に回っているように勘違いしている。約束の時間を三十分も遅れて着ているのに、謝ろうともしない。
「いいかい、時間は無制限にあるわけじゃないよ」
おどけているつもりであろう、「説教なら聞きたくないよ」と美咲は微笑んだ。
「説教じゃない。忠告だ。俺も若いときは時間が無限にあると錯覚した。早く年老いたいと思ったこともあった。しかし四十を越えた時から、自分の生きている時間が有限であり、それも少しずつ減っていくのに気づいた」
美咲は聞いていなかった。道行く人を好奇心満ちた目で見ていた。まるで幼子のようなきれいな瞳で。
「話、聞いていないだろ?」
美咲は素直にうなずいた。秋山は続きを話すのを止めた。
ある夜のことを話そうと思っていた。その夜とは、精神的に激しい衝撃を受けた夜のことである。―――ふと気づくと、夜の暗闇の中で喘いだ。明かりをつける。鏡をのぞく。憔悴している自分がいる。昼間の自分とは別人の自分がそこにいた。
その夜のことは誰にも話していない。だが、美咲に聞いてほしかった。聞いてもらい、慰めてほしいと思った。しかし、よくよく考えてみれば、滑稽な話であることに気づいた。親子と言っても言いほど年が離れている。分かり合えるものなどあるはずがないのだから。
「顔に何かついている?」と美咲が聞いた。
「いや、何も? 初めて会ったころに比べて痩せたなと思って」
「最近、みんなにそう言うの。自分では気づかないけど」
何とも幸せな顔をしていると秋山は思った。誰が、借金を返すために初老の男の愛人になっていると想像できるだろう。少しも暗さを感じさせないのは、演じているのか、それとも天然の馬鹿なのか。だが、余計な詮索しない、互いの生活に踏み込まない、それが愛人契約の前提である。それは彼が望んだことだったが、今になると何とも味気無い関係にしているように思えてならなかった。しかし、一度決めたことを破る訳にはいかなかった。
喫茶店を出た後、二人はホテルに入った。彼女は恥ずかしげもなく裸体をさらした。それも極めて自然に。
「もう三年になるな」
「そうだね」と屈託なくほほ笑む。
二人でシャワーを浴びた後、美咲は部屋の明かりを薄暗くし、裸体をベッドに横たえ、目を閉じる。決められた手順どおりである。毎回同じ手順に、秋山は何とも味気ないと感じている。そのせいか、肝心なものが立たない。
「どうしたの?」と女が聞く。
「立たなくなった」と素直に答えた。
「じゃ、してあげる」
秋山は美咲の顔を見た。嬉しそうな顔で愛撫している。何のためらいも見せないが、秋山には実に不思議にならなかった。金のためなら、悪魔にさえ魂を売るのかと問いたかった。
形だけの愛の儀式が無事に終わった。再びシャワーを浴びた後、美咲はバスタオルで体を拭いた後、平気で秋山の前で下着をつける。その光景は見慣れたといえ、秋山はうんざりしている。もともと、セックスそのものよりも女の恥らう姿に、秋山の大きな喜びがあったのを、美咲は少しも気づかない。
「ねえ、どこか紅葉を見に行った?」と服を着終えた美咲が聞いた。
「金沢に行ったな?」
「金沢って、どこにあるの?」
「北陸にある古都だ。前田利家が作った城下町だ。知らないのか?」
「知らない」と素直に答える。
「ところで、美咲、冬になれば、また一つ歳をとる。俺も生き方を変えるようと思う。お前も生き方を変えろ」と秋山はやんわりと別れ話を切り出した。
「別れるということ? どうして?」
「もう、お前とのセックスに飽きた」
作品名:愛人契約 作家名:楡井英夫