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熾(おき)
熾(おき)
novelistID. 55931
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月のあなた 下(2/4)

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危機


  
「ヴル、ジ、イノ…!」 

 怒ったような泣いたような血走った目で、司書は蜜柑に訴えた。感情をぶちまけているようでもあり、最後の一線でこらえている様でもあった。

「せんせい」

 蜜柑が後ずさると、どん、とガラスに背中があたった。拾い上げたクラッチを両手で前に突き出すように構える。

「ズナ…ズナぁドドニアイッレ」   

 ぐい、と、クラッチの先端がその胸に食い込んだ。
司書は数秒、歩くのを止めたが、やがてまた性急な前進を始めた。
 前へと体重がかけられるたびに、先端が胸にめり込んでいく。
 蜜柑は顔を背け、力一杯クラッチを握りしめながら目を閉じた。涙がこぼれ落ちた。
 何かが前髪をかすめて、目を細く開けると、司書が両手を前へ伸ばして、空中で水を掻くような動作をしていた。

「ああ」

 蜜柑は耐えきれずにクラッチを放すと、とっさに横に身をよけた。
 司書はつんのめって膝をつく。

「ごめんなさい――」

 蜜柑はそのうずくまった背中を一瞬だけ振りかえって、すぐにカウンターの正面にある、図書館二階の階段へと走り出した。

(確か…七階にも通用口があったはず。)

 五階から六階へまでは一気に駆け上がれた。
 ぐるりとフロアの反対側へ回って、また六階から七階へ上がりかけたところで、だが息が切れた。
 脳内を駆け巡るアドレナリンは、走れ走れとさっきから繰り返しているが、明らかに普段の運動不足がたたっている。
 ぽん、と背中に手が置かれた。

「…マッデ…」

 その笑顔には、すでに数条の罅が入っていた。

 ”先生は走るのが苦手なのよ。”

「い」

 もう先生はいないんだ。

「いや!」

 そう思った瞬間、蜜柑は司書を突き飛ばしていた。
 大人の体は驚くほど軽く、階段の下へと転げ落ちて行った。

「あ――」

 蜜柑は息を切らしながら、倒れたままの司書を見つめた。

「あの」

 司書が顔だけをぐるりと動かしてこちらを見上げた瞬間、アドレナリンは脳から一気に足までを動かしてくれた。

  *
 
 張り裂けそうな心臓を抑えながら、蜜柑は走り続ける。
 陽は傾き始め、図書館の中もオレンジ色の強い光と、本棚から降りてくる真っ黒な影のツートーンに塗りつぶされている。
 窓の外では、学園構内も辺りの林も夕日の色に染まろうとしていた。
 幾重にも重なった本棚の壁の間を縫って、蜜柑はあしをもつれさせそうになりながら、走り抜ける。

「…マッデ…ヨオ…!」

 人のものとも思えない叫びが廊下の向こうから響いてきたとき、フロアの一番奥にある、通用口が見えた。
 だがそれは、整理室の奥にあったものと同じ、IDで開く鉄扉のタイプのものだった。

(お願い、開いて!)

 息を切らしたままL字型のドアノブに手を掛ける。だが、それは小さな音を立てただけで、少しも下がろうとしなかった。
 顔から血が引いて、全身が寒気に襲われる。
 三石が最後に見せた、ガラス向こうの鍵の束が、フラッシュバックした。

 ”あんたたちコレでオワリだって。”

(嘘だ、嘘だ…!)

 何度も何度もステンレスのノブを上げ下げするが、鍵が外れるはずもない。

「嘘だあああっ!」

 いつもこうだ。
 わたしはガラス向こうの世界に追いやられる。そして入れてもらえない。
 救われてる人たちの世界との見えない壁が、押しても引いても開かない! 

「…ドゴ………イッショニ…ガエロウ…デ…イッダジャナイノ」 
「だれか、そとにいないの? だれか、そこにいてくれないの!?」

 蜜柑は泣き叫びながら、鉄のドアを二、三度叩いた。
 開くはずがない。どう足掻いても。蜜柑はとっさにあたりを見渡した。
 黄金と影とに分かれた図書館の風景の、金色の中に誰かの頭の影が伸びて映る。

「!」 

 蜜柑はほとんど考えることなく、影の一つの中に転がり込んでいた。
 後は何もできず、身を縮めて震えるしかなかった。

「……ゼンゼイ…ノ…」

 ああ、でももうここで行き止まりじゃないか。
 そう思うと泣きたくなってきた。先生の声が近い。

 泣いたら見つかるだろう。
 泣いちゃだめだよ。
 泣きたいよ。
 泣いちゃだめ。
 声を、出しちゃだめだ!

「――ンゥ…!」

 蜜柑は幼児の様に膝を抱えた姿勢で、右手の親指を付け根までをくわえ込んだ。さらに右手を左手で包み込む。

 そして授乳される赤子のように、もぐもぐとあごを上下に動かしていた。涙が止まらなかった。

「イウゴドヲ…ギガナイゴハ…」

 声は、頭の後ろから聞こえた。

「オジオギ…ダァッ!」
「――!」

 強い衝撃音がして、やがて血がぽたり、と目の前の床に垂れたのが見えた。

(痛い。)

 景色がぼやけて見える。

「………。…ドゴニ…イッダノオ…!」
「あ…は…いた…いよぉ」

 声が段々と遠ざかって行くのを感じながら、蜜柑は顎を開いて小さく呻いた。
 右親指の付け根には歯形がくっきりと、新しい血の球を膨らませながら残っていた。

 袖で涙を拭うと、その部屋の光景がはっきりと見えた。
 夕日に照らされた地球儀を中心とした、四つの読書台と、壁に所狭しとならべられた展示物――そこは、通用口の向かい、誰か前の使用者がちゃんとドアを施錠して行かなかった所蔵室だった。