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恋愛の理由(後篇)

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とりあえず、眠り続ける彼女をベッドに寝かせた。
壁にかけた時計を眺めると、まだ9時になるかならないかの時間帯だった。
彼女を起こさないようにそうっと部屋の中を移動し、そうっと冷蔵庫を開ける。
よく冷えたミネラルウォーターをグラスに注いで一気に飲み干すと、頭の中が洗われたようにスカッとする。
目の前には、私とさほど身長は変わらないけど私より断然スタイルいい女性が、海老のように丸まって、いびきをかきながら眠っている。
服はめくれ、腰元は丸見えで、何度もそれ直すのに、何度も彼女自身がそれを手で振り払う。
そのミスマッチな情景を、私はフローリングの床に体育座りした格好でグラスを傾けながら見つめていた。
眠る顔は、化粧もしたままで、ファンデーションや口紅が枕カバーを少しこすっていた。
彼女が寝ているからテレビをつけてニュースを見ることも出来ないし、パソコンを起動させてもキーを叩く音で起こしてしまうかもしれない。
だから、とにかく寝顔を見続けるくらいしかすることがないのだけど、自分の寝顔を誰かにずっと見られるのもイヤだと思う。
仕方ないので、目を閉じて、深呼吸しながら背伸びをする。
口と鼻から思い切り、カビやホコリの匂いのない空気を吸い込む。
少しお酒の匂いが充満していることに気づいて、私は立ち上がって、窓を開けた。
昼間なら、幼稚園児の声がこだまするアパート沿いの道も、今は人もまばらで、街灯の光だけが揺れている。
梅雨は夏の始まりとは言え、まだ、少し、空気が肌寒い。
ほの冷たい一筋の風がカーテンをなびかせたとき、ベッドに眠っていた櫻子さんは、小さく声を上げた。

「ん…」

「すいません、寒かったですか?」

バサバサの髪の毛に、よれよれのシャツ、腰元が丸見えな櫻子さんは、むくっと体を起こすだけ起こしても、状況把握には時間がかかっていた。
天井や辺りを何度も見回して、目をきょろきょろとさせて。
しかも、どうやらコンタクトだったのか、目を何度もごしごしとこすりながら、痛そうに瞬いている。
私は、急いでティッシュ箱を片手に櫻子さんのもとへと歩み寄る。
彼女の目を覆った手の指間から、ウサギのように真っ赤に充血した瞳が覗いていた。

「あの、大丈夫ですか?」

「ええ、慣れてるから…病院行かないとなぁ、朝」

そう言いながらもまだ目をこする櫻子さんの手を、私は止める。
その手は、見た目よりもずっとあまりにも細かった。
細くて、お酒をあれだけ飲んだ後なのにひんやりと冷たくて、血管が青くうっすらと浮かんでいた。
この手が、いろんな作品をくみ上げてるんだな、と思うと、思わず力が入ってしまう。
ゆっくりと手首を持ち上げて、顔から手を引き離すと、彼女の瞳から、ふるっと涙が零れ落ちてきた。
真っ赤に充血した瞳から零れ落ちた涙は、体温を伝えるかのごとく、あたたかい。
櫻子さんは、自分の涙に驚いたような、あっけに取られたような顔をしたまま、流れ落ちていった涙の行方を見つめていた。
すうっと頬から顎を伝って逃げていった涙がベッドシーツに吸い込まれるのを見つめる櫻子さんの瞳は、硝子玉のように、まん丸で、無垢だ。

「あの…」

そっとその流れ落ちてゆく涙をティッシュで拭おうとしたその時。
私の唇は、塞がれてしまった。
誰に、なんて、考えられる人は1人しかいないに決まっている。
とっさのことだったから、目を閉じる間もなかったし、そんなことをするような余裕もなかった。
どうしてこんなことになったのか。
どうして、こんなことをするのか。
それは、私には全くと言っていいほど、わからなかった。
だけど。
彼女が、あまりにも"いつもの"櫻子さんじゃなかったから、私は、櫻子さんの体を抱きしめた。
震える彼女は、雨に濡れる捨て犬よりも、もっともっと、泣きじゃくっていた。










「人がキスをする理由?」

「うん」

「おっ、カンちゃん、ついに書く気になったの?恋愛小説?」

あの日の雨なんてどこに行ったのやら、と思えるくらいの空梅雨が終わった昼下がり、私と香苗はいつものカフェテラスにいた。
私は授業をサボっていた。
こんなことは、滅多にあることじゃないのだけど、授業を削ってまで、私は香苗に会っていた、ということだ。
あの日以来、つまり、櫻子さんからいきなりキスされたあの日以来、私は小説を書いていない。
さらに付け加えると、あの日以来、つまり、約2ヶ月ほど、櫻子さんとは会っていない。
もっと付け加えると、あの日以来、ずっと、連絡さえも、取っていない。
次に会った時に渡される予定だった、『雨色図書館』に寄稿した作品の批評アンケート結果も、どうしてか、メール便で到着した。
そのメール便の中に、万年筆ですらっと書かれたような『ごめんなさい』がただ一枚、一切れのスクウェアのメモに乗せられて、同封されていた。
私は、あまりにも気まずくて、そのアンケート結果をまだ読んではいない。
会いたくないんだろうか。
そう思うと、どうしてなのかはわからないが、眉毛を寄せて、眉間にしわを作るくらい、悩んでしまうのだ。
どう悩むのか、と言われると説明は難しい。
とにかく、脳みその中での処理が追いつかないのか、いつものように思考が感情を駆逐してくれないのだ。
いつもの自分じゃない、そう思うたびに、どんどん深みにはまっていく。
そして、空梅雨なんか、あっという間にすぎてしまった。
あれから櫻子さんに一度も会わないまま、雨の季節は、過ぎ去ってしまったのだ。

「いや、そういうわけじゃないんだけど」

「ほら、『雨色図書館』に載せた、ミュージシャンのお話あったじゃない?あれにちょっと恋愛っぽい感じの文章出てたから、もしかしたらって思ったんだよね」

「あれは、恋愛小説じゃないでしょう?」

唐突に香苗の口から飛び出た『恋愛っぽい』の言葉を言い切られないうちに遮り、コーヒーを流し込む。
香苗は、『サインしてもらおうと思って持ってきたんだ』と、『雨色図書館』の本誌をカバンから取り出した。
そして、その『恋愛っぽい』文章とやらが書かれている(らしい)箇所のページを見せる。
そのシーンはちょうど、事務所のオーディションに落ちて、雨にまで降られた主人公が偶然飛び込んだ喫茶店のマスターとの会話のシーンだった。
彼女は、音楽をやめようと思うと呟き、マスターは、じゃあやめたら、と続ける、というものだ。
私には、ごく普通の描写をつづっただけだとしか思えない。

「このシーン、好きなんだよね、私」

「そうなの?」

「こういうの、今までのカンちゃんの小説にはなかった展開じゃない?だから思ったんだよね、ああ、恋愛っぽい感じってのがつかめてきたのかなって」

「なかった展開?つかめてきた?」

さらに、脳みそでの処理速度は落ちていく。
オウム返しするしかできないほど、私は香苗の言う言葉を理解する術をもっていなかった。
香苗は、そんな私を見ながらケラケラ笑い声を、カフェテラスに響くくらい上げていた。
カフェテラスのウェイターがこちらをちらちら見てくるのが、困り者なくらいだ。
作品名:恋愛の理由(後篇) 作家名:奥谷紗耶