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さようなら、から始まる手紙

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さようなら、から始まる手紙




 その遺書は「さようなら」から始まっていた。


 来年の春に、三年間付き合った彼女と結婚することが決まった。いい加減決断したのは、自分の二十八歳というギリギリな年頃という理由もあったし、彼女からも彼女の両親からも急かされていたという理由もあった。実際、彼女と結婚するのは嫌じゃなかった。ふわりとしたボブカットに、マニュキュアを塗らなくてもキラキラしている爪。笑うと頬にえくぼが片方だけできる。でも怒るとべらぼうに怖くて、まな板を投げ付けられて僕は鼻を折ったこともある。良いも悪いも全部あわせて撹拌させて出来たような彼女が僕はとても好きだった。

 そうして、僕には彼女と同じぐらい好きな人がもう一人いた。それは、僕の叔父さんだ。智則叔父さんは、僕の故郷で作家をしている。新聞のコラムや小さな短編を年にいくつか出して、富めるわけでもなく貧しいわけでもなく、のらりくらりと暮らしていた。そんな叔父さんのことを、僕の父さんは『唐変木』やら『変わり者』やらと言っていたけれども、僕は、いつものんびりと笑っている叔父さんが子供の頃からずっと大好きだった。叔父さんからは、柔らかくも暖かい秋のような匂いがした。

 叔父さんは、夏になると決まってスイカをごちそうしてくれた。一個丸々のスイカを四つ切りにして、ただでさえ大きなそれの更に大きな方を僕へと必ずくれるのだ。縁側に座って、ぷらぷらと足を揺らしながら、叔父さんは僕を観ている。優しく穏やかな視線に、僕は包まれる。叔父さんには、奥さんも子供もいなかった。だから、きっと甥っ子である僕を一等可愛がってくれたんだろうと思う。


 電話で結婚の報告をした時、叔父さんは数秒押し黙った。それから、弾んだ声で「おめでとう」と言った。微かに笑いを含んだ声が耳朶をくすぐった。


 「道夫君もとうとう結婚か。寂しくなるなあ」
 「佳永子連れて、そっちに遊びに行くよ」
 「遊びにくるって言っても、次に帰ってくるのはお正月だろう? どちらにしても、後三ヶ月はするじゃないか」
 「三ヶ月ぐらいあっという間だって。それより叔父さんも早く奥さん見つけなよ。甥っ子に追い抜かされてんじゃない」


 他愛もない会話だと思った。だけど、次に聞こえてきた叔父さんの声は、小さく掠れていた。


 「そうだな。ひとりぼっちは、嫌だなぁ」


 受話器を通して微かな寂寥が伝わってくるようだった。叔父さん、と僕が声をかける前に、ぶつりと電話は切れた。もう一度掛け直したけれども、その後は決して繋がらなかった。






 そして、その夜だ。叔父さんが階段から転げ落ちて死んだ、と母から電話が掛かってきた。

 事切れた叔父さんの胸には、季節外れなスイカが一つ抱き締められていた。おそらくスイカを一階から二階へと運ぼうとして足を滑らせたのだろう、というのが親戚一同の見解だった。

 秋晴れの空の下、叔父さんの葬式が開かれる。棺の底でひたりと目を閉じた叔父さんからは、あの懐かしく心地よい秋の匂いが感じられなかった。顔を近付けて、くんと鼻先を鳴らしても、ただ甘く粉っぽい白粉の匂いがするだけだ。

 眠る叔父さんの胸へと花を差し伸べる。眩しいぐらい純白の花々に包まれた叔父さんは、あの時の電話のように、淡い寂寥を漂わせていた。






 三日後、叔父さんの部屋から遺書が見つかった。手触りの良いすべすべとした木製の机の二段目の引き出しから、それは出てきた。淡い若草色をした封筒に入った手紙は、さようならの一言から始まっていた。


 『さようなら。
  不意に長年の寂寥に耐え切れなくなったため、身勝手ながら死なせて頂きます。
  通夜、葬式などご面倒をかけて申し訳御座いません。
  流れ流れのまま生きてきまして、ろくに築いた財産などもございません。
  家財などは処分して頂きますようお願い申し上げます。

  最期に申し上げられることも然程ございません。
  ただ、とても好きだったのです。
  スイカを食べるあの子の姿を見ているのがとてもとても、好きでした。
  魂が打ち震え、満ち足りました。
  未練がましくこのような事を言い残す私をどうかお許し下さい。
  そうして、どうか私を忘れて下さい。
  どうぞ、どうぞお願い申し上げます。

  葛西智則』


 短い遺書だと思った。そうして、叔父さんは馬鹿だと思った。こんな遺書があるものか。さようなら、から始まるラブレターがあってたまるものか。僕は、遺書を誰にも見せなかった。誰の目にも触れず、千切り、炎の中に投げ込むべき手紙だと思った。こんな事を書かれたら、忘れられるものも忘れられない。さようなら、なんて言えるわけがない。

 叔父さんは酷い。どうして生きているうちに一言でも想いを打ち明けず、死んでからようやく切々と語り始めるのか。誰にも寄り添うことなく、寂寥を抱えながらひっそりと死んだ叔父さんを想う。彼は灰になり、もう元には戻らない。

 遺書の下から、もう一枚ポストカードを見つけた。長閑な風景画の描かれたカードの裏には、たどたどしい鉛筆書きでこう書かれていた。


 『結婚おめでとう。君の幸せが悲しくて嬉しい。涙が出るぐらい幸せだ。本当だ』


 涙が出るのは、悲しいからなのか嬉しいからなのか。あの秋の匂いがする叔父さんに聞いてみたい。物書きとは思えない、そのぎこちない文章に思わず笑いが零れた。小さな笑いが咽喉をふふと揺らして、淡い悲しみに震えた。

 秋になる度に、僕は叔父さんのことを思い出すだろう。あの柔らかく暖かな匂いを、木漏れ日の中でそっと微笑む姿を。スイカを食べる僕を見詰める、あの穏やかな眼差しを。きっと、さようならが返せるのは、もう少し後だ。