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キスマーク

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『キスマーク』

正平の家柄も、地位も、財産も、容姿も、全てが申し分ない。完璧に近いくらいなので、寄ってくる女はたくさんいる。気取ったプレイボーイを演じている。だからといって、安易に遊ぶようなことはしない。面倒なことに巻き込まれないように細心の注意を払っている。
今、執心なのはホステスをしている二十九歳のナオミである。感度が実によく、まるでセックスをするために生まれてきたような女である。和服が実に良く似合い、礼儀作法も心得ており、何よりも頭の回転が速い。それらの全てが正平の求める理想的な女の要素に合致している。

ナオミがこの地に来たのは十九歳の時である。知人の伝手ですぐにホステスを始めた。もう十年が経っている。類まれな美貌にひかれて、言い寄る男は数知れなかったが、その中から、金持ちで、割り切った関係ができる男だけを選んで関係を結んだ。一つは金のため、もう一つはセックスを楽しむためである。むろん、恋人と呼べる存在も常にいた。

 正平とナオミとの関係は、もう四年になろうとしている。正平は一人の女と四年以上続いたことがない。ナオミとの関係もそろそろ終わりだと、正平は思っている。いや、終わりにしなければいけないと思っている。なぜなら、これ以上を続けたなら、情が深くなり、その関係を断つことがだんだんと難しくなるからだ。とはいえ簡単には別れられない。セックスの相性が抜群に良いからだ。まるで手慣れた楽器のように反応してくれる。二十年以上続いた妻とでさえこうはいかなかった。もし、年齢という壁がなかったら、どんな代償を払っても、一緒になったかもしれない。しかし、正平はもう五十を超えていた。情熱に身を任せられるほど若くはなかった。

 冬の終わりである。
 週末、正平とナオミはいつものようにデートをしていた。
 食事の後、川岸にあるカフェに入った。
 何気なく、ナオミは聞いた。
「ねえ、ヨーロッパで住むならどこがいい?」
 正平は海外経験が長く、またヨーロッパの地理や歴史、経済にも詳しかった。
「働くことを考えないなら、南欧だね。暖かくて暮らしやすい。でも働くことを考えるなら、ドイツとかイギリスがいいと思うね。でも、どうして、そんなことを聞く?」
「私ね。海外に行こうと思っているの?」
「海外へ? いつ? なんのため?」
「そんなに真面目に聞かないでよ。まだ決めてないのよ」と微笑んだ。
 正平は嘘だと直感した。
 ナオミは続けて言った。
「でも、もうじき三十よ。いい歳よ。この頃、潮時かなと思っている」
「どんな潮時だ?」
「お店を続けることよ。辞めるときは、ここを離れようと思っている。いっそのこと、日本を離れるのも良いと思っている」
「大胆な発想だな」と正平は苦笑した。
「どこか見知らぬ土地で、これからの人生を考えるのも良いと思わない?」
「良いかもしれない。どのくらい行こうと思っている?」
「分からないわよ。まだ考え始めたばかりだから」
「戻ってくるのか?」
「日本に戻ると思うけど、ここには戻らない」
 そのとき、正平はほっとした。なぜなら、もう別れるかどうか悩む必要がなくなったから。「去るなら、勝手に去ってくれ」と思った。
「君の自由にすればいい」と正平は答えた。
ナオミは黙ってうなずいた。窓から名残雪が惜しみなく降り注ぐ川をじっと眺めていた。川は雪解け水を含んで勢いがある。
窓に薄らと映る美しいナオミの顔を見て、その美しさを手放すのは惜しいとも思った。

 ナオミは海外へ行きたいと言った後も、店に留まり、そして正平との関係も続けた。言われた頃は気にしていたが、その後、何も言わなくなったので、若い女によくある、単なる気まぐれと片付けた。海外へ行きたいと話をも、正平は忘れてしまった。

 正平の妻が母親を介護するということで、実家に戻ってもう半年になる。戻ってくる気配がない。最初の頃は電話もくれたが、今は電話さえない。娘も音楽学校で寮生活している。広い家では、彼と家政婦だけである。
 最近、悪夢に苛まされ、真夜中に目を覚ますことがときどきある。その多くは、独りぼっちで死んでいく悪夢である。恐ろしさのあまり、目を覚ます。ふと鏡を見ると、悪夢がさほど誤っていないと思えるような老いた顔が映し出されている。無性に腹が立ち鏡をたたき割ったこともある。年老いていく不安と孤独をかき消してくれるのは、ナオミ以外いない。そのことに彼自身も気づいていたが、ナオミに伝えたことはない。ナオミの前では、相変わらず気取ったプレイボーイを演じている。

 春の日のことである。
 正平はナオミを茶会に誘った。ナオミは茶会に相応しい和服で来た。まるで美しい花のようである。清楚でいて、それでいて可憐さを備えている。何よりも体の少し細さを感じさせる。それが正平の好みであった。
茶会の後、桜を観て、食事をして、ホテルに泊まった。
 いつになくナオミの体を丁寧に愛撫していたとき、臀部に近い背中に鮮やかな痣を発見した。明らかにキスマークだった。それを見た瞬間、彼は明らかに自分の内に沸き起こる嫉妬心を感じずにはいられなかった。同時に、そのキスマークをつけた男を押しのけて独占したいという欲望が起こった。
正平はいつになく激しかった。何かに駆りたてられるかのように。
 ナオミは心配した。
「何かあったの?」と聞いた。
「どうして?」
「だって、激しいから」
「別に何もない」
 正平が嘘をついている。ナオミはそう感じたか、追究はしなかった。
 
夜が明けようとする午前五時、ナオミはまだ深い眠りについていたが、正平はもう目覚め静かに起きた。喉の渇きを感じたので、水を飲んだ。昨日の夜のことを考えた。どうしてあんなに燃えたのか。間違いなくキスマークを見たせいだった。あのキスマークが情熱に火をつけた。だが、よくよく考えるとナオミのことをよく知らない。いや知ろうとしなかった。仕事柄、複数の男と同時に関係を持っていたとしても、不思議ではない。かつての正平なら気にしなかったし、寧ろ、それを好都合と考えただろう。なぜなら、自分に夢中になり、結婚してくれなどと言われたなら面倒なことに成りかねないからである。だが、以前のように、簡単に女を口説けるほど若くはない。金をちらつけせれば、寄ってくる女はたくさんいるが、ナオミのように情のある女はいない。今やナオミは正平にとってなくてはならない存在になっている。キスマークを発見してから、そのことがはっきりと分かったのである。ナオミを失えば、単なる老いたプイボーイに過ぎなくなる。

 五月のある日のことである。
 雨が続いていた。
 偶然、ナオミに似た女が男連れで、正平の目の前を通り過ぎた。男は正平よりも若くて背が高かった。正平は自分の中に激しい不安を起こるのを感じずにはいらなかった。夢中で二人の後を追いかけていた。だが、大きな十字路で見失った。仕方なく、近くのデパートに入った。
作品名:キスマーク 作家名:楡井英夫