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壊れた自画像

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『壊れた自画像』

誰もが自分のイメージを持っている。そのイメージが壊れたとき、どうなるか。Kの例をみよう。
Kは幸せを絵に描いたような人物であるが、その幸せは自分自身の力で勝ち取ったものであり、決して他人の力や、あるいは運によるものではないではないと、彼自身は思っている。事実、彼は誰よりも決断が早く、その決断に間違いは無かった。今までの人生で起こったことの多くは即断即決で決めてきた。大学も、就職も、妻との結婚も。それらが完璧でないにしろ、満足できる結果を収めた。東京で念願のマイホームを手に入れた。若くして、一流企業の課長の地位まで上りつめた。これからますます脂がのり、さらに飛躍できると、誰もがそう思っていた。

Kの上司Mは定年間近である。これといった才能もない代わりに、これといった欠点もない。社長の言うことをひたすら聞いて部下に伝える伝書鳩のような存在である。上司Mはそんな役割が悪いと思ったことはない。むしろ、分相応に生きていると思った。Kはかねがねそんな上司Mを心の中では軽蔑していたが、表面的には合わせた。しかし、上司MはKの心の中にある軽蔑を気づかぬほど、ぼんくらではなかった。
ある宴会のとき、上司Mが、「いいか、気をつけろ。全て順調なときほど、つまずく」とKに注意したら、
「それは経験からですか?」と皮肉っぽい言い方で尋ねた。
「無論、経験じゃないが」と言葉を濁した。
以来、さほど、親密でもなかった関係がさらに疎遠になった。
一ヶ月間をかけて考えた新規の事業計画は上司M抜きで部下とともに練った。出来上がると、上司Mに向かって、
「ハンコだけ押してください」と言って書類を出した。
「読まなくとも良い」とあからさまに言っているが、しかし、上司Mは何食わぬ顔で、「そうか」と言って判を押した。

社長が出席する御前会議が開かれた。
Kは自信をもって臨んだ。そして、練りに練った事情計画を自信満々に発表した。誰もがじっと聞いていた。いよいよ終わりに近づいたときのことである。
Kは「今は経済的に厳しい状況ですが、いや、だからこそ、大胆に新しいビジネスに進出すべきです」と胸を張って言った。
すると、社長が「馬鹿か」と呟いた。それは誰かに向かって明確に言われたわけではないが、場の状況から、誰もがKに向かって言ったように理解した。Kにとって想定外だった。
Kは恐る恐る社長を見た。社長は何事もなかったように、詰まらなそうに書類に目をやっていた。Kは何を言っていいのか分からず黙っていた。背中に額から冷や汗が流れてくるのを感じた。
どれほど時間が経ったか、気を取り直し続けようとした矢先、社長が突然「止めよう。会議は終わりだ」と言った。
ワンマン社長に誰も反論しなかった。そのとき、Kの心の中で何かが音をたてて崩れた。やがて、一人、二人と会議室から消えた。
会議の後、上司MはKに言った。
「気にすることはない。有能な人間は、一度、二度と社長に叩かれる。そして大きくなる」
しかし、Kには何の慰めにならなかった。

会議の日を境にして、Kは変わった。前のように自信満々に発言したり、行動したりすることができなくなった。実を言うと、自信の揺らぎはもう数ヶ月前からあった。それは妻との喧嘩のときである。
小さな諍いだった。突然、言い合いが面倒臭くなって、いつもの癖で、「馬鹿か」と言ってしまったのである。
高校しか出ていない妻はそんなふうに言われるといつも押し黙ったが、そのときは違っていた。
「いつも馬鹿と言うけど、馬鹿と言われた人間の気持ちが分かるの」と泣いた。
「あなたはほんのちょっと普通よりいい大学を出て、普通よりもちょっといい会社に入っただけじゃない」
言い過ぎたと思って謝ろうとしていたのに、“ほんのちょっと”と皮肉を言われてかちんときた。
「そこまでいうのなら、お前は出て行け。一人で生きてみろ」と言った。
ただ単に売り言葉に買い言葉のつもりだった。だが、翌朝、妻は黙って出て行った。妻は実家に帰ったのである。一週間もすれば戻ってくると思っていたが、戻らず、ずるずると一月が過ぎてしまった。そして、今回の会議での失態である。Kは自分が本当は賢い人間ではなく、自分ただ単に運が良かっただけに過ぎないのではないかと思うようになった。いつの間にか、Kの中にあった自信に満ちた自画像が崩れたのである。

会議の席で社長に、「馬鹿か」と言われたことが原因で、Kが意気消沈していることは、すぐに会社中に広まった。それを気遣った部下が飲みに誘った。
部下が飲みながら、「先輩は凄い人でね。独創性は無いけど、調子よく立ち回れるから、上手く出世の波に乗れましたよね」
部下は褒めたつもりだろうが、額面どおりに受け取るなら、褒めていない。いつもなら聞き流すことができたのが、できずに、突然、「もう帰ろう」と怒気をあらわにした。

数ヵ月後、Kはすっかり変わってしまった。時折、卑屈な笑みを浮かべることもあった。順風満帆に進んできた人間ほど、ちょっとした躓きで崩れることがある。それでも、若い時に経験すれば何とかなるだろうが、彼のように四十近くになって経験すると、なかなか立ち直れない。Kがその好例である。

Kは大きな壁にぶつかっていると思った。自分が悩みを打ち明けることのできる人間は妻しかいないことに気づき、藁をもすがる思いで電話した。運よく出てくれた。
ぶっきらぼうに、「会社が嫌になった」と告げると、
「だから?」
「辞めていいか?」
「子どもみたいなことを言うのね」と皮肉っぽくいった。妻を罵倒するとき、「馬鹿」という言葉が一番多かった。次に、「子どもみたい」という言葉である。同じ言葉を使っての意趣返しである。別に慰めの言葉を期待していたわけではないが、それでももっと親身に聞いてくれると思ったが、そうではなかった。
「ただ、お前の考えを聞いてみたかった」
「いつものように、自分で決めなさいよ」
妻は親身に耳を傾けてくれそうもない。Kはそう思い、電話を切った。

悪いことは重なるものである。Kは交通事故に遭ってしまった。事故の前後のことは何も覚えていなかった。気づいたら、ベッドに寝ていた。警察から話によれば、横断歩道を歩いているときにはねられたとか。ただ、そのときは赤信号もしくは黄色だったのではないか。
Kが気づいたとき、枕元には、妻がいた。
Kは子どものように泣いた。
泣いた後、Kは聞いた、「やり直せるか?」
妻は「あなた次第よ」
「何でもするから、やり直させてくれ」と子どものように、また泣いた。泣いた後、心の中でもやもやしたものが消えていくのを感じた。

上司Mに辞表を提出した。
「辞めるのか?」
「はい」とKは素直に答えた。
「辞めてどうする?」
「幸い、小さな会社に雇ってくれると言いました」
上司MはKが穏やかな顔になっているのに気づきうなずいた。Kは壊れた自画像から新しい自画像を作り出したのである。



作品名:壊れた自画像 作家名:楡井英夫