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潮騒

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『潮騒』

朝、奈々子が目覚めると、恋人の和樹は既に起きていた。日の差す窓に向かいながらシャツを着ている。
海に面したホテルである。六階の部屋の大きな窓からは春の海が見える。青い水平線が五月の空と海を隔てていて、何艘かの船が行き来している。そんな海を和樹は静かに見ている。
 奈々子もゆっくりとベッドから出た。
 和樹が小声で、「起きたのか?」と聞いた。
「起きたよ、おはよう」と微笑むと、和樹もつられるように微笑んだ。
二人とも言葉が続かなかった。数日後には、和樹はヨーロッパに旅立つ。「どんな別れの言葉を言えばいいのか」と奈々子はずっと思案していたけれど言葉が浮かばない。それが奈々子を沈黙させた。だが、和樹はどうだろう? 和樹は、相変わらず海を見ている。
奈々子は海に興味はなかった。ただ和樹の背中に見ているうちに、激しく愛し合った夜のことを思い出したら、また体が火照ってくるのを感じずにはいられなかった。少し気を紛らわそうと、ベッドから抜け出し窓を開けた。すると、微かに潮騒が聞こえてきた。ザァー、ザァーと波が打ち寄せては砕ける。それは音楽のようだった。遠い異国の音楽のような軽やかなリズムである。和樹の行く、あの国の音楽。奈々子にはそう思われた。

 二人とも何も言わない。同じように沈黙しているだけである。まるで潮騒を聞き入っているように見える。単調で、それでいて、飽きない不思議な潮騒のメロディを。だが、奈々子は何も言えない自分が歯がゆくて仕方なかった。今日、言わなければいけないと思っている。ホテルを出たなら、もう二度と会えないのだから。でも、いい言葉が見つからない。いまさら、「行かないで」とか、「私も連れて行って」も言えない。ましては夢のために旅立つ彼に、「待っている」とか足枷になるようなことも言えない。言葉が出てこない以上、ただ黙っているしかない。潮騒を聞きながらこの時を共有するしかない……。

奈々子は時計を見た。六時半である。
「七時半くらいに出る?」と和樹に聞いた。
「いいよ」
 和樹は音楽だけにこだわりって生きてきた。それ以外のこだわりはない。食べ物も、おしゃれも、女も。
 奈々子が冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、「コーヒーでも飲みましょう」と言った。
「寒くないかい?」
 奈々子はまだ下着姿だった。
「ちょうどいい感じ」
「それならいいけど」
 奈々子は焦った。何も言えないまま別れの時が迫っているからである。ただ彼を見ているだけ。
「そんなにじろじろと見ないでくれ」と和樹は照れた。
 はっと我に返った。いつの間にか、彼を見ながら、彼が行く遠い異国のことに思いをはせていたのである。
 二十九の奈々子に対して、和樹はまだ二十四だった。彼が戻ってくるかもしれない三年後には、もう三十二なっている。三年待っても、和樹が結婚してくれるかどうかは全く分からない。三年後になって、和樹を諦めても、言い寄る男は現れず、ずっとシングルのままなのはいないかもしれない。病気がちな母親はそのことを心配している。
「どんな人だろうとかまわないよ」と母親は言う。その優しさが奈々子の胸を掻きむしる。早く結婚して母親を安心させてあげたい。シングルマザーだった母親は人一倍働いてきた。気苦労が多かったせいか、同年代の女たちよりもずっと老けてみえる。母親を安心させたいと思いながら、その一方で和樹以外の男と一緒になるということを想像すらしたことがなかった。彼と続いた四年間は夢のようだった。まるで静かに物が落ちていくように、愛の深みにはまっていったのである。だが、もうじき、別れなければならない。後悔していない。後悔はしていないが、何だか、心の大きな部分を切り取られたような喪失感がある。

奈々子は鏡の前に座り、化粧を始めた。化粧をしながら、母親のことを思った。母親は最近、恋人いるのかとしきりに聞く。
「好きな人がいるの? いるんでしょう? 今度、紹介しなさいよ。母さんはどんな仕事をしている人でもかまわないわよ。あなたが選んだなら」
一度も和樹を母親に紹介したことがない。出会ったときから、心のどこかで、いつか別れると思っていたから。いつか別れる。その不安感が愛を高めた。フランスの作家プルーストもいっている。『安定は愛を殺し、不安は愛を掻き立てる』と。そう、奈々子もいつか来る別れに怯えながら抱かれた。その不安が愛を高めた。ときに執拗に愛を確かめた。その愛の深さが彼を驚かせた。昨日の夜もそうだった。
幼いときに両親が離婚した。奈々子は父親の顔をよく知らない。彼女の心に残っているのは、生きるために昼も夜も懸命に働く母親の姿。そしてアパートで母親の帰りを寂しく待っている自分。結婚したら、同じような人生を歩むのではないかと漠然と思っていた。それが結婚に対して憧れを持てなかった理由である。
和樹が「お前は寂しさを隠せない女だ」と言ったことを思い出し、「今、寂しそうな顔をしているかしら?」と聞きたかったが、それも言葉にならない。

「今、何を考えている?」と唐突に和樹が口を開いた。
 和樹はじっと奈々子の顔を見ている。とても涼しい目をしている。青い海のようなクールな目だ。この瞳に見つめられると、奈々子は何もかも投げ出して抱かれたい気持ちになるのだが、今はぐっと堪えた。
「分かるの? 分かるなら、当ててみてよ?」
「今日の晩飯のことだろ?」と彼は笑った。
いつも彼が先に笑う。その笑いが奈々子を笑わせる。彼の笑っているのを見ているだけで心楽しくなるのだ。『たった一度の人生、楽しまなければおもしろくない』というのが彼の口癖だった。奈々子もその考えに共感している。
 今まで二人は週一、二回デートをした。その度に裸で愛し合った。今では互いの体の隅々まで知り尽くしている。暗闇の中でも、彼の息遣いだけで、彼がどんな表情をしているのか思い描くことができる。だが、デートしていないとき、彼がどんなふうに夜を過ごしているのか知らない。和樹は五つ年下なのだが、逆にずっと年上のように、女の扱いは慣れている。随分前に奈々子は「他にも好きな人がいるでしょ?」と聞いたことがある。彼は素直に「来るものは拒まない」と言った。それ以上は聞かなかったが、どんなときにでも,自分の他、少なくとももう一人くらいは恋人がいると確信していた。それでも良かった。独占する気はなかった。彼と巡り合い、愛し合えただけでも幸せだと思っていた。

笑いはすぐに収まり、沈黙が支配する。ただ潮騒だけがする。ザァー、ザァーと。
和樹はもう缶コーヒーを飲みほした。何も言わない。海を見ている。
風が少し出てきたようだ。潮騒の音がさっきより強くなっている。
和樹は「もう、服を着ろよ」と言うと、窓辺でタバコに火をつけた。奈々子は服を着ながら、和樹が行くスペインに思いをはせた。……古い街並み。石畳。迷路のような道。ふい聞こえてくる人々のざわめき。キリスト教の荘厳な教会。そんな街を一緒に歩いてみたかった。
 服を着終えると、和樹は「部屋を出よう」と言った。
 奈々子はうなずいた。
 
半年前、奈々子は和樹から「今度、スペインに行く」と告白された。
作品名:潮騒 作家名:楡井英夫