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腐った桃は、犬も喰わない

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桃井さんとヤクザ 8




 四面楚歌とは、こういう状況のことを言う。例えば、糞厳つい顔をしたヤクザの幹部が一人居て、その真正面のソファに座る僕らの周り四方八方をガンを飛ばしまくるヤクザが囲んでいるような状況だ。だけど、それは四字熟語の例え話ではなく、紛れもない現実の話だけれども。

 楓子の案内で、僕らは小倉がいるであろう事務所にやって来た。「小倉さんいる?」と気安い口調で門番らしき男に話しかけた桃井さんは、危うく袋叩きにされかけた。それを止めたのは今僕らの目の前にいる厳つい顔をしたヤクザで、それが当の小倉本人だと知ったのはつい今しがただ。

 桃井さんは、相変わらず緊張感のない笑みを浮かべながら、机の上に置かれたカシューナッツをぽりぽりとリスのように食べている。小倉は、暫くそんな桃井さんの姿を眺めていたが、桃井さんが自分から切り出す様子がないのを知ると、ゆったりと息を吐き出すように話し始めた。


 「あんたらは誰だ?」


 厳つい見た目にそぐわぬ、繊細そうな声だった。穏やかで、それでいて芯がある声は、何処か老年の教師を思わせる。桃井さんは、カシューナッツを頬張ったまま、一度きょとりと目を瞬かせた。


 「誰だろうねぇ」
 「ふざけてるのか?」
 「ちっとも」


 そう答えながらも、桃井さんはニィーと唇を引き裂くようにして笑った。丸っきり馬鹿にしているようにしか見えない。小倉の眼差しが険を孕んで尖る。


 「同業者か?」
 「それってヤクザってこと? それなら違うよ。俺はね、何でも屋さん。名前は桃井」
 「モモイ」


 まるでオウムのように桃井さんの名前を繰り返して、小倉は面食らったような表情を浮かべた。そうして、次の瞬間、桃井さんの横に座ったままじっと小倉を見つめていた楓子を、半ば無理矢理自分のもとへと引き寄せた。腕を引っ張られた楓子が小さく悲鳴をあげる。


 「何、どうしたの?」
 「楓子に何もしてないだろうな」


 楓子の問い掛けに返事すら返さず、小倉は楓子を腕に抱き締めたまま桃井さんを睨み付けた。その焦燥を滲ませた眼差しに、僕は酷く驚いた。桃井さんは、こともなげに答えた。


 「殴ったよ。ほっぺたを思いっきり」


 ソファが激しく軋む音が聞こえた。いきり立った小倉が立ち上がって、桃井さんの胸倉を掴む。桃井さんの小柄ではない身体がまるで玩具のように引き摺り上げられる光景に、僕は目を見開いた。


 「手前ェ!」


 小倉が唾を撒き散らしながら喚く。コメカミを浮かび上がらせた額をじっと眺めながら、桃井さんはふぅと小さく息を付いた。


 「鬱陶しいな」
 「あ゛ァ?」
 「鬱陶しいんだよ、あんた。女一人守れねぇくせに、他人を脅すことだけは一丁前にしやがんのか。優先順位の付け方間違えてんじゃねぇのか」


 吐き捨てて、桃井さんが唇の端を哂いに捻じ曲げる。途端、酷く意地の悪い面構えになった。ひくりと小倉の頬が引き攣る。


 「何が目的だ」
 「目的?」
 「金か。それとも、皇龍組の利権でも狙ってんのか」


 胸倉を掴まれたまま、桃井さんがおどけた仕草で肩を竦める。


 「昔からヤクザは義理人情って言うけどさ、今はこんな風に現実的かつ合理的なもんなわけ? 少しは他人の善意ってもんを信じられないもんかねぇ」
 「手前じゃない奴なら少しは信じてみようとも思うが、モモイって男は信用できねぇな」


 モモイという名前を強調して小倉は言う。その言葉に、桃井さんの目が細められる。微かに尖った眼差しの底に見えるのは、ほの暗い怒りだ。


 「俺のことなんて何も知らないくせに」
 「手前のことならよく知ってるさ」


 押し殺した声での遣り取り。張り詰めた糸を断ち切ったのは、楓子の苛立った声だった。


 「五月蝿い。あんたら二人とも黙って、座って」


 足を組んで、ソファを指差す楓子はまるで女王様のような気質を滲ませていた。小倉が狼狽したように目を瞬かせる。そんな小倉を横目で睨み付けて、楓子は足裏で机を蹴り飛ばした。ガンッと鈍い音が鳴る。


 「モモちゃんを離しなさい」
 「楓子、こいつはな…」
 「いいから、離せっつってんのよ! あたしだって他人の善意なんか信じたりしない! だけど、モモちゃんは信じる! そう決めたの!」


 楓子の叫び声に、小倉と桃井さんは困惑の表情を浮かべて、お互いに顔を見合わせた。しかし、桃井さんの顔はすぐにくしゃりと崩れた。何処か泣き出しそうな辛そうな表情だ。


 「それで裏切られたって、それはあたしの責任でしかない」


 潔い楓子の言葉に、皮膚がぞくりと粟立つのを感じた。この女は腹を括っている。性根が据わった女ほど怖いものはない。命すら簡単に投げ出し始める。


 「モモちゃんは、あたしにごめんって言ったの。謝った人を、これ以上責める気なんかない わ」
 「…でも、俺はこいつを信用できん」
 「でも、耳ぐらいはついてるでしょ。まず話を聞いて」


 男よりも男らしい台詞に、小倉がしぶしぶといった様子で桃井さんから手を離す。大の男二人がしょんぼりとした様子でソファに座り込む姿は、不気味と紙一重な光景だった。その姿を見てから、楓子が落ち着いた声で話し始める。


 「アキラ、お願いだから兄貴と話をして。このままじゃ皇龍組ごと共倒れしちゃう」
 「御前の兄貴は聞く耳を持とうとせん。昨日、うちの若いもんが昭夫についとる馬鹿共にリンチされた。鼻をナイフで削がれて、両指千切られて、あいつはもうまともに字を書くことすら出来ん。俺はそれでも昭夫と解り合わんにゃいけんのか」


 楓子が息を呑む。まさかそこまで昭夫と小倉の間が緊迫したものになっているとは思わなかったのだろう。俯いた小倉は怒りに打ち震えているというよりも、悲しみに打ちひしがれているように見えた。


 「俺は、組長の座なんざどうでもいい。だが、やられたことは、それ相応にやりかえさにゃいけん。それが筋ってもんだ」
 「あたしは筋なんか知らない。ただ、自分の兄貴と好きな人が殺し合ってるところなんか見たくないだけ」
 「もう、どうにもならん」
 「言い切るなよ! 何で言い切んのよ! じゃあ、あたしには何にも出来ないって言うの! ただ黙って、どっちかが死ぬのを見てるしかないわけ!?」
 「俺は、御前にこのまま逃げて欲しい」


 諦め、悟り切ったように小倉は静かに呟いた。楓子が一瞬動きを止めて、下唇を悔しげに噛み締める。


 「あたしひとりだけ尻尾巻いて逃げろって言うの」
 「そうすりゃ御前まで殺されることはない」


 出来すぎだと思った。まるで古臭い仁侠映画の男と女のような暑苦しくてお涙頂戴な会話だ。鼻白む思いを腹の底に押し留めながら、僕はそっと嘆息した。横では、桃井さんが右手で犬鍋太郎の頭を撫でながら、左手でまんじゅうをもしゃもしゃと食べている。そうして、桃井さんは嘲るように鼻を鳴らすと、こう言った。


 「デコちゃんは逃がさないよ」


 丸っきり悪役の台詞だった。途端、小倉の眼差しが鋭く尖る。憎しみを滲ませたその眼球は、一直線に桃井さんを睨み付けていた。


 「やっぱり手前は、昭夫側の人間か…」
作品名:腐った桃は、犬も喰わない 作家名:耳子