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みやこたまち
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般若湯村雨(同人坩堝撫子2)

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 陰花寺を離れ、迷いなく歩く彼女についていく。分かれ道でも躊躇いなく進んでいく彼女の歩調は早い。先程の尼僧とも訳ありのようだったし、おそらくこのあたりに住んでいるのだろう。木漏れ日を抜ける陽光は暑さを増していく。
 やがて彼女の歩調が緩んだ。疲れたのだろうと思う。ずっと上りづくめだ。リュックも大きい。
「少し、休もうか?」
 彼女の前に出て尋ねる。すると彼女は僕を突き飛ばして言う。
「先頭交代もしないで、休むとは何事よ。このままじゃ日が暮れてしまうわよ」
「先頭交代?」
 彼女は腰に手をあてて、爪先でトントンと地面を叩きながら、ため息をつく。
「本当に、何にも知らないのね。いままで私が引っ張ってあげたんだから、今度はあなたが先頭を引くの。常識でしょうに」
 そういう事なら、やぶさかではないが、問題が一つある。
「いいよ。しばらく僕が引くから。でも道を知らないから、指示してよ」
 そう言うと、彼女は両手で髪をくしゃくしゃにして、地団駄を踏んだ。傾いた眼鏡の奥から三白眼が睨んでいる。
「道? この道を行けばどうなるものか? 知らないわよ。あなたが知っているんじゃないの。これまで一度も私が決めた道に文句をつけなかったじゃないの。私は自分の勘の良さに舞い上がっていたところだったわよ。また正解。次はこっちかしら。あ、また何にも言われなかった。すごいぞ私。さすがは私、ってね」
 僕は「またか」と思った。だが、彼女がこの辺りの地理に明るいという推測が間違っていたということよりも、今どこにいるのか、という問題の方が切実なのだという判断だけは、出来た。
「そ、それじゃ、今まで君は何処に向かって進んでいるのか、知らなかったってわけ?」
「当たり前でしょ。こんな山道」
 僕と彼女はしばらくにらみ合った。そしてどちらからともなく、笑い合った。その笑いが冷たくなってから、僕たちは、これからの事を話し合った。と同時に先へ先へと歩きはじめていた。歩くように議論し、議論するように歩く。腰を落ちつけてしまったら、動く理由が無くなってしまう。数々の枝道をでたらめに選んで進んできた我々だ。陰花寺へ戻る道すら定かではない。「遭難」という言葉を、僕は幾度も打ち消していた。
「旅行ならガイドブックか何か持っているんでしょ」
 彼女は怒気を帯びた声を張り上げた。僕は頷いてガイドを取り出した。
 目次をひもとくと、表遍路と裏遍路の交錯するこの山間の林道には、部外者には知れない宿が無数に点在していた。「遭難」なんて思い詰めた自分に赤面しながら、僕は彼女とどんな宿が良いかを話し合った。僕はこのあたりへ来るのは始めてだったので、なるべく雰囲気のある木賃宿にでも泊まりたかったのだが、彼女は大反対した。
「ノミや虱や鼠や油虫や、汚れたシーツや、垢じみた浴衣や、お湯の出ないシャワーや、粗末な山菜料理や、おやじの昔話や、しけった囲炉裏や、たてつけの悪い扉や、同宿人とのレクリエーションや、朝の国旗掲揚や、ラジオ体操や、じゃんけん大会や……」
「わ、分かったから。僕もそこまで物好きじゃない。ただ、よくあるリゾートタイプの宿は嫌だなって思っただけだから」
 と言いながら、僕は一抹の不安を拭えずにいた。確かに宿はそこいらじゅうに点在していると書かれてあった。だが、今までの道筋にそれらしい建物は一件も見つからなかったし、そもそも、ここが何処なのかすら判然していないのだ。ガイドだって、この地区のもので合っているのかどうかさえ、今では不安だ。僕は彼女にそのことを察してもらおうと悲しげに振り向いた。だがそこにいるはずの彼女はいなかった。目をこらすと、いつの間にか通りすぎていたバス停のベンチに、彼女はリュックを下ろして、ノートに何か書いている。僕は決まりが悪い。戻ってきた日差しのために、一面の石畳からは蒸気が立ちのぼり、杉木立を揺らめかしている。鼻血が出そうな予感がした。だが僕は既にいたる所から血を流しているのだと思った。そうして、僕の行く先々には、血が転々と滴っているのだと思った。それとも、血の痕跡を求めて僕は旅をしていたのだろうか? 錆びたバス停の曲がった停留所札の一点が、日差しを捉えて目の眩むような光を放った。僕はこんな光を観たことがあったと思った。
 「それは夏のある一コマだ」
 というナレーションが聞こえた。それは自分の心の声だった。途端に僕は嫌になった。用意周到な感傷にほだされるほど、僕は弱っちゃいないんだと、力んだ。するとやっぱり鼻血が出そうな予感がした。
「針一本落としても崩れそうな七月の正午前である」
「六月の三時過ぎでしょ」
 不意に彼女の声が響く。針一本どころではない。僕の嫌悪にまみれた感傷はあっけなく崩落した。
「だいたいモノログが多すぎるのよ、あなたって」
「仕方がないだろ。感傷に浸りたがる年頃なんだから」
 彼女はつまらなそうに足をバタバタとさせる。膝の上に乗っていたはずのノウトは既に無い。
「今、何か書いていたでしょ?」
 と僕は尋ねる。
「私は自分の感傷を人に見せびらかして同情を誘おうなんて魂胆はこれっぽっちも無いしノウトに書きつけるものは感傷だけとは限らないのよ」
 と彼女が答える。「何か秘密があるな」と僕は心に留めておく。
「それで、バスを待つ理由は?」
「ここにバス停があったからよ。このまま歩き続けても、この山からは出られない。人は踏み迷うものよ」
「僕の後ろに道は出来る」
「泥濘の獣道がね」
 僕はもう彼女の毒舌に慣れた。心地よくすら感じるほどだ。隣に腰を下ろす。彼女はリュックを僕の反対側にどかした。僕への配慮ではない。彼女は用心したのだ。僕と彼女の間には、リュックサック一つ分の秘密がある。広くて深い川のような。
「それで、僕たちはバスに乗ってこの山を脱出するわけだ」
「違うわ。旅の宿を探すのよ」
 彼女は苔むした杉の林を見つめながら、ぽそりと言った。