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レイニーブルー

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ami de cour  桃神




オーブンの扉を開くと、熱気とともに甘い匂いが神無を襲った。天板に薄く広がった生地には美味しそうな焼き色が付いている。
「どう? 焼けてる?」
竹串を片手に桃子が覗き込んだ。薄い生地だから生焼けの心配もさほど無いが、菓子初心者の二人は慎重に慎重を重ね、確認する。生地に刺した竹串の先に何も付いていないのを見ると、二人同時にほっと息を吐いた。
ケーキクーラーに載せて生地を冷ましている間に、グラッサージュとクリームの用意をする。生クリームを泡立てる神無の横で、桃子が取り分けておいた生の木苺を摘まんで食べると神無は小さく声を上げた。その開いた口の中に甘い実が一粒放り込まれる。桃子が悪戯っぽく小首を傾げた。
「このために余分に取っておいたんだから良いの!」
「どうりでピューレがやけに少ないと思った」
水羽が背後で呆れたような声を出す。鬼ヶ里で初めての調理実習は、神無も作ったことの無いような本格的なケーキだった。レシピが配られた際に神無は困惑するしかなかった。多少料理の腕には自信があったが、こんなきらびやかなケーキなど作ったこと無い。複雑な工程はおひたしさえ満足に作ったことの無い高校生には荷が重すぎるだろうと思うのに、桃子はそれが鬼ヶ里だから、と慣れたように笑って調理道具を取り出していた。そんな桃子も危うい手付きで、同じ班の水羽が手助けに入ったから、神無はほっとして、検討の付く範囲から取りかかり始めた。
木苺のピューレを作っていた手を止めて、桃子が振り返った。
「早咲も食べる?」
「それ以上食べたら飾り付け用が無くなるよ」
水羽は煮詰めた砂糖と水飴に、板ゼラチンが静かに入れた。神無と桃子よりも手際よく作業を進める水羽を見て、神無は焦ったように泡だて器を動かした。しかし非力な神無ではなかなか角が立つまでに至らない。手際の悪い二人を見兼ねて繁雑な作業は水羽が買って出てくれたのだから、せめて単純作業は、と神無が力を振るうも虚しく、ボウルの中で生クリームはゆるゆると液体状を保っていた。
「土佐塚、バトンタッチ」
隣で木苺のピューレを掻き混ぜていた桃子に鍋を任せて、水羽は神無の手を押さえた。神無はやんわりとボウルと泡だて器を奪われた。
「前から生クリーム用の砂糖を持ってきてくれる?」
水羽の優しく交代を促す。桃子が、本当に神無は愛されてるね、と呟いた。
情けない思いで神無が教卓に向かっていると、視線を感じた。生徒たちがそれぞれ机を囲んで調理実習に勤しんでいる。その合間から見え隠れする冷ややかな美貌。鬼の花嫁たちの中にあっても一際目を引く美しい少女。傍らにはいつものように背の高い華やかな容姿の少女がいた。その剥き出しの敵意は毎日のように神無に注がれていたが、その鋭さに未だに慣れることはできなかった。
目を逸らすと、背中を強く押された。
「ああ、ごめんなさいね?」
スパチュラを片手に少女が笑う。周りからくすくすと嫌な笑いが神無に向けられた。俯いて足早に教卓に向かいながら、教室の隅にいる桃子と水羽を確認した。気付かれていないようだ、とほっとする。自分への嫌がらせに彼らを巻き込みたく無かった。水羽は女子同士の諍いに表立ってで介入することは避けて、さり気無く神無を守ってくれていたが、桃子はいつも矢面に立とうとした。神無といることで桃子が中傷を浴びるのも、傷を負うのも、神無にとっては辛いことだった。しかしその一方で、桃子が神無を友人だと言って守ろうとしてくれるのが、とても嬉しかった。
邪魔されないようにと、神無が慌てて砂糖を計って持って帰ると、桃子が声を上げた。
「神無、背中!」
「え?」
ごしごしと服越しに背中を擦られる。濡れたタオルが赤く染まる。さっきのスパチュラだろうかと、神無は眉を寄せた。替えのセーラーは明日の朝までに間に合うだろうか。
「また江島にやられたの? あいつら――」
怒りの籠もった桃子の声に神無は慌てて首を振った。
「あの、それよりも、早くケーキ作ろう? 授業が終わっちゃう」
ちゃんと桃子達と作ったケーキを完成させたかった。その意を汲んだように、水羽は四季子達を睨み付ける桃子の肩を叩いた。
「ほら、土佐塚は生地を切って。神無はそれに刷毛でシロップを塗って。神無から調理実習のお菓子を貰うことはできない代わりに、一緒に作るのを楽しみたいんだから協力してよ。まったく、何だって男女混合で調理実習をするようになったんだろうね。お陰で神無から貰えない」
「時代の流れでしょ。でもこの教室で早咲が一番エプロン似合ってるよ――手際も一番良いし」
学校の備品の白いエプロンはシンプルなデザインなのに、愛らしい顔立ちの水羽が着ると随分と可愛らしい雰囲気だった。新妻みたいで、という一言を桃子はどうにか飲み込んだ。
「……誉め言葉ととっておくよ」
手早くフランボワーズクリームを仕上げた水羽は複雑そうな表情を浮かべていた。あまり嬉しくないのかな、と神無が不思議そうに水羽を眺めていると、目の前でビスキュイ生地を切っていた桃子が声を潜めて笑った。
「でも早咲がいてくれて助かったね」
つられて神無も笑った。桃子と二人きりだったら成形に至らなかったかもしれない。そう考えると何だかおかしかった。普段なら情けなくて消えたくなるのに、桃子と一緒だと笑えた。
「ほら、神無、塗りむらができないようにね」
気がそぞろになっていた神無は、はっとなって刷毛を持ち直して作業に取りかかった。シロップでしっとりとした生地の上に、桃子と水羽がそれぞれクリームやガナッシュを重ね、その上にまたビスキュイを載せる。それを繰り返して、最後に木苺のグラッサージュを掛けて均等に切り分け、一つずつに木苺をトッピングすると完成だった。鮮紅色のグラッサージュが光を弾く。断面は白と薄紅、茶色が美しい層を為していた。
素人が作ったにしてはきれいな仕上がりのケーキを見て、神無がひっそりと声も無く感動していると、桃子が笑いながらケーキボックスを手渡した。
「木籐先輩にあげるんでしょ?」
桃子の明るい声にさっと視線が神無に集まった。それに気付いているのかいないのか、桃子はなおも言葉を重ねる。
「あ、でも三翼にもあげなきゃいけないよね。一人二個だから数が足りないけど……誰に渡すの?」
教室の視線もさることながら、桃子の発言内容も神無を悩ませた。正方形の大きなケーキを均分してできた九個の小さなケーキの内三つは家庭科教諭と担任をはじめとする教師たちに提供される。残ったケーキは各自持って帰って良いことになっていた。
夕食後に出したら華鬼は食べてくれるだろうかと考える。しかし残る一個はどうすれば良いのだろう。神無は小食だったからデザートにケーキなど考えられなかった。それでなくとも実習中の甘い匂いだけでお腹がいっぱいなのに。もえぎに渡そうかと考えるが、しかし麗二に渡さないのもなにかおかしいような気がする。麗二ともえぎに渡せば、それはそれで三翼全員に渡せないことが気に掛かる。神無は三翼の扱いにことさら差を設けないようにと腐心してきた。彼らの好意は本当に嬉しかったが、それが同情からということには気が付いていたし、彼らの内の一人だけを選ぶなどできそうもなかった。
作品名:レイニーブルー 作家名:萱野