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剣(つるぎ)の名を持つ男 -拝み屋 葵【外伝】-

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 *  *  *

 本部を一歩出た佐佑は、周囲を完全に包みこんだ霧を前にして、さてどうしたものか、と首を捻らせていた。
 霧が立ち込めたロンドンの街は、その姿を幻想的なものへと変える。初めて目の当たりにした者は、そこに畏怖を覚えるだろう。
 霧の濃さにもよるが、地上の交通手段はほぼ完全に麻痺する。視界が数メートルしかない街を車で移動するなど、無謀としか言いようがない。
 その際の移動手段として挙げられるのが、蜘蛛の巣のように縦横無尽に張り巡らされた地下鉄だ。ロンドンの地下鉄は“Subway”ではなく“the Tube”と呼ばれている。三百近い駅によって、名実共に住人の足となっている。
 地上が駄目なら地下を行けばいい、というのは、異論を挟む余地のない正論なのだが、佐佑が悩んでいるのは、その地下鉄の駅までどうやって行こうか、というところだったりする。
 どれだけ悩んでみたところで、徒歩以外の移動手段は存在しない。佐佑は諦めて霧の街へと足を踏み出す。
「目を背けてきた事実、か」
 事実を目にすることができるのならば、それは喜ばしいことだ。佐佑は既に事実を事実として受け止めることができる年齢だ。加えて、人生において自らの過去と対決できる機会など、そうあるものでもない。
 佐佑はリンダの言葉を思い起こしていた。
「自分を騙すことなんて、毎日のことだったさ……」
 霧の街は、佐佑の呟きをそっと飲み込んだ。
 視界を遮る霧は、自分は目を逸らしてなどいない、目を凝らしても見えないのだ、と言い張れるだけの僅かな自尊心を与える。さながら、事実を覆い隠してくれる都合の良い社会通念のようであった。
 佐佑は、自身が置かれている境遇にあまり関心を持つことがない。
 どこへ行こうとも、何をしていようとも、自分が自分であることに変わりはなく、あるがままに生きて行くだけだ、という考えによるものだ。
 しかし、最近になって自身のことを考える時間が急増していた。それは、クローディアの存在があってのことだ。深く入り込まれた経験を持たない佐佑は、初めての感情に途惑いを感じているのだ。豊富とは言わないが、色恋の経験がなかったわけではない。だからこその混乱だった。
 答えを見出すどころか、混乱さえも収まらぬまま、会えば目を背けてきた事実と対決することになるという妖精が現れた。
 会えばすべてが分かる。
 その言葉は、成り行きに任せてしまうことを正当化する、この上ない最良の言葉だと言えた。
「結局、成り行き任せか」
 佐佑は、自嘲気味に笑った。

 英国人の父と日本人の母。
 父は軍人で、英国陸軍の将校だった。母は名も無き音楽家。
 英国で生まれ英国で暮らしていたが、母が他界した折に母方の祖父に引き取られ、日本で暮らすようになった。
 十八歳の頃、父を訪ねて渡英し、そのまま日本に帰らず英国陸軍に入隊。
 その後、父の病死と同時に軍を辞め、日本へ戻る。

 これが草薙佐佑の略歴だ。
 草薙という姓も、佐佑という名も、どちらも生来のものではない。複数の名を与えられ、その度に名を変え、そうして現在の草薙佐佑に至っている。
 草薙という姓は、その仰仰しさからあまり好きではなかった。反面、佐佑という名は、どちらとも付かない読みも、文字が持つ意味も気に入っていた。
 本当の名前は、この世界に足を踏み入れる際に忘れた。他ならぬ自分の手で記憶から消しさった。当時の佐佑は、敢えて天涯孤独の身の上になることでしか、前に進むことができなかった。
 そうして、そのことさえも消し去った佐佑の記憶には、略歴以上ものは何もなく、目を背けてきた事実とは自ら消し去った記憶のことなのだが、佐佑にはそれが分からないのだ。

 ロンドン地下鉄の主要駅であるセント・パンクラス駅から、ピカデリー線で僅か一駅。ラッセル・スクウェア駅の南西に、駅名にもなっているロンドンで二番目の大きさを持つ公園広場ラッセル・スクウェアが広がる。
 目指す大英博物館は、その真南にある。
 ギリシャ様式の建築物が霧に浮かぶ姿は、快晴が続く地中海では滅多に見ることができない。ただし、その姿は陰鬱であり、良いものではない。
 ロンドンの霧は、朝だろうが夕方だろうがお構いなしに発生する。夏よりも冬に発生することが多いが、夏場は発生しないということではない。
 正面玄関には、高さ十メートルは下らないであろうイオニア式円柱が建てられている。イオニア式は礎盤から屋根までを含むことを付け加えておく。

 佐佑は霧の街の中をのそのそと歩いていた。
 博物館の正面玄関が南東を向いているため、北北東に位置する駅からは回り込む必要があったのだ。
 ようやく到着した佐佑に、博物館の守衛が駆け寄る。
「遅かったじゃねぇか」
 恰幅の良い守衛は、一息入れる間など与えやしない、という思惑を浮かべていた。
「タキタか」
 佐佑は、この見知った顔が見せる挨拶代わりの悪意に、いつしか親しみを感じるようになっていた。
「出迎えなどいらんといつも言っているだろう」
「あんたはすぐサボるからな」
 事実であるため、佐佑は苦笑するしかない。
「しかし、よく分かるな」
「あんたが近づくと電波が飛んでくるんだ」
「すまん。紹介してやれる病院を知らない」
「俺は健康だぞ?」
 タキタは、日本人の父親と英国人の母親との間に生まれたハーフだ。英国で生まれ英国で育ち、三十路を超えて未だに日本を知らない。そのせいか、日本から来た佐佑に対して一方的な親近感を抱いており、何かしらの理由を見つけては佐佑を呼び出し、日本の話を聞きたがった。
 タキタの外見はほぼ英国人のそれだが、瞳は茶色で髪は黒い。一方、同じハーフであるはずの佐佑は、どこからどう見ても純粋な日本人だ。外見から二人がハーフであることに気付ける者はいない。
「何が起きたんだ?」
「なんだ、今日は仕事熱心だな?」
 本題に取り掛かろうとした佐佑を茶化したタキタは、直後にその行為を後悔する。
「何があった?」
 タキタは、苛立ちを含んだ視線を博物館に投げ続ける佐佑に問い掛けたが、その答えは得られなかった。
「日本ブースに何かが現れた。突然、な」
 根負けしたタキタは、状況の説明を始める。
「敷地から出ていないことは確かなんだが、どこにいるかは分からない」
「なるほど。それで、俺を呼んだ理由は?」
 無感情に言い放つ佐佑に、タキタは口の端を攣り上げた。
 タキタは、佐佑がその質問の答えに必ず興味を示す確信を持っていた。
「化け物だ。あんた以上の」
「なるほど」
 佐佑は、その一言だけを発した。
 それはそれは嬉しそうに。