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草競馬

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  草競馬

 フランス中央山地アリエ県に、ヴィシーという町がある。ロワール河の支流アリエ河畔に広がった瀟洒な温泉場である。療養院の多いところで、リタイアした老夫婦の移住先、旅行先として人気がある。特に夏は、秘書を兼ねた年輩の客でにぎわう。連れ合いを亡くした男女が、新しい出会いを求めてヴィシーにやってくるという話しもよく聞く。
 私も、若き日の放浪時代に、この地に二ヶ月ほど滞在したことがあった。
 そのときに書いたと思われるメモが手元に残っている。友人と行った草競馬に関する文章である。走り書き程度のものなのだが、それを読むと、今でもそのときの様子をありありと思い浮かべることができる。

 夏の太陽がようやく森の向こうへ沈み始め、涼しい風が川面から届いてくる頃、森の競馬場の門が開かれ、近郊の町人や村人が自動車で集まってくる。農民の家族総出と見える人たちもあれば、恋人同士もある。銀杏の大木の下でピクニックというグループも少なくない。馬券を買う風もなく、柵に寄りかかって遠くを眺めている男もいる。普段が静かな町だから、こうやって人の匂いを嗅ぎに来るのかもしれない。
 周囲が薄暗くなると、スタンドと馬場に照明が灯る。一瞬、競馬場全体が白く浮き上がり、人々から「わーっ」という歓声が上がる。そろそろ馬券売り場が忙しくなる。みんなが、配られた出走馬のリストと、大型スクリーンに映し出されたレースの倍率を見比べながら、どの窓口に並ぶかを思案する。そのうちに、各窓口の列がどんどん長くなる。列をはさんで若者たちが、オレの分も買っておいてくれ、単勝だ、いや複勝にするなどと怒鳴り合っている。
 私は、その日、タイの友人リュック・クリエンカイと一緒だった。ヴィシーには有名なフランス語の研修学校があり、彼はそこの学生である。この学校の生徒の半分以上は、途上国から公費で派遣された若き官僚か企業から派遣された研修生だ。だから、ヴィシーにいると世界中の人間と知り合いになるが、その中でも私はタイ人の留学生たちと仲が良く、特にこのリュックとは、最初から意気投合した。
 リュックが私の部屋へやってきて、一緒に夜間レースに行かないかと誘ったのは、つい数時間前であった。
「二人だけで?」
「ああ」
「他のタイの連中は?」
「いない。一泊二日のバスツアーとかで」
 その歯切れの悪さから、すぐに事情が飲み込める。つまりは、競馬をやっているところを他のタイ人に知られたくないのだ。初夏の夕暮れを散歩するのもいいかなと思い、彼と一緒に行くことにした。
 しかし、私たちがこの土地の競馬に詳しいはずがない。当てずっぽうに馬券を買い求め、ビールを片手に、冗談を言いながら柵ごしにレースが始まるのを待つだけである。競馬場一面を包む芝は、白色灯の光を存分に吸って、しっとりとした光を反射していた。博打に来たというより、風に誘われて芝の緑を愛でに来たという心持ちであった。
 ここのレースは、シャリオと呼ばれるローマ式の戦車レースである。馬一頭で曳くので、戦車とはいうよりリヤカーか大八車に近い簡素さである。通常の騎乗スタイルよりスピードが遅いが、その分、コーナーやゴール前での競り合いは格段に面白い。
 スタートすると、馬の群が照明の下に躍り出る。しかし、こちらに届いてくるのは、高らかな蹄の音ではなく、ゴトゴトという車輪の回転音である。場内のスピーカーからは、実況放送が流され、その興奮した声に満場の衆が湧く。車輪の回転音はさらに近づき、先頭集団が正面スタンドを通過する時には、歓声・野次・怒号が極に達する。コーナーを抜け、最後の直線を駆けて、次々のゴールする。それと同時にどよめきが起き、夜の空へ消えていく。
 星々が美しい模様を編み、夜空のシルエットを作るとき、最終レースが終わる。時刻はすでに十二時に近い。精算してみると、リュックは百五十フランの負け、私はわずか十フランの儲けであった。
 送迎バスを途中で降りて、私たちはアリエ河沿いに並んだ料亭の一つに足を踏み入れた。食堂の奥を抜けると、八畳ほどの水上テラスができており、夏の間、ここがビアホールとなる。レストランの営業が終了した後も、このテラスなら深夜まで酒が飲める。テーブルは小さく、頭上には色とりどりの豆電球がぶら下がっている。隣のレストランは、まだ営業しているらしく、大勢の男女が談笑する声が、このテラスまで届いてきた。そんな中で、私たちはビールを飲み始めた。
 リュックは、農務省の役人だが、同時に軍人でもある。そのせいか、体格はがっちりしており、今にもタイ式ボクシングのリングにでも上りそうだ。このヴィシーには半年以上いたが、もう三日後には、ヴィシーを引き上げてパリに行かなければならない。パリで一ヶ月ほどオリエンテーションを受け、その後の三ヶ月を畜産や酪農の実地研修に費やすらしい。当然、彼の出発を祝っての二人だけの宴となり、ビールの杯が重ねられる。火照った身体に川風が心地よい。向こう岸の鬱蒼とした森の上には月が上り、アリエの川面に白蜜のような姿を映している。
 二人は、さんざん酔っぱらってテラスを後にした。二人とも千鳥足で、肩を組んで歌ったり喚いたりした。
「いいか、ぜったいタイに遊びに来い。いいか?」
「ああ」
「約束だぞ」
「ああ」
「よし、約束した。お前がタイに来たら、いろんな所へ連れていってやる。いい女も紹介してやる。タイの女は最高だぞー!」
 リュックは、オレのアパートで飲み直そうと言い張った。しかし、実際に彼のアパートに行くと、ウィスキーのグラスにちょっと口をつけただけで、テーブルに俯して寝始めた。私は、デスクにあったレター用紙を一枚拝借し、ペンを滑らせた。
『研修はがんばってくれ。タイでまた会おう。必ず行くから。その時まで、バイバイ』
 私は、誰もいない夜中の街路を歩いていった。街頭だけがぼんやりした灯りを舗道に落としている。フランスの夏は朝が早い。あと一時間もしないうちに空は白み始めるだろう。今は一番闇が深く、静寂が支配する時間帯だ。
 私の耳では、先ほど聴いた草競馬の歓声がよみがえる。それは、一度爆発し、長い尾を引きながら次第に弱まり、小さな震えを残して消える。リュックと私は、熱狂し、あふれ、花火のように消えていく時間を共有した。誰もが、人生のこんな断片を拾いつつ、歩いていくのだろう。そして、死という最終ゴールに向かっていくのだろう……そんなことを考えながら歩いていった。

 あれから、もう三十年以上が経つ。
 実際に、数年後、私はタイに行った。しかし、リュックは引っ越ししており、残してくれた住所と電話番号では連絡がとれず、滞在中に会うことができなかった。
 互いの年齢から考えて、もう一生、再会の約束を果たすことはできないだろう。仕方がない。世の中には、うまく行かないこともあるのだ。我々に青春の日々があり、美しいヴィシーの初夏に草競馬で遊んだ楽しい思い出がある。それだけで十分ではないか。
作品名:草競馬 作家名:鬼火