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ベイクド・ワールド (上)

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第七章 痛みとは私が私として存在するための要因であり、自己と他者を分け隔てるもの



 まぶたにカーテンの隙間から洩れる光をかすかに感じて、僕は目をあけた。長い夜を超えて、ようやく朝が来たようだ。僕は部屋のなかを眺めた。ひだまりにまどろむ猫はまだ眠っていた。耳をすますとささやかな呼吸音が聞こえた。僕は彼女を起こさないようにそっと立ち上がり、足音をしのばせて部屋を出た。
 香ばしい珈琲の香りが僕の鼻をついた。僕は花の蜜を探す蝶のようにその香りがする場所へと導かれていった。台所にはゲバルトが立っていた。すぐに僕に気がついて「おはよう」と言った。僕も挨拶を返した。
「昨日は眠れたかい?」とゲバルトは珈琲を淹れながら僕に訊いた。
「ええ、眠れました」と僕は嘘をついた。眠りの概念を奪われた僕は眠ることができないのだ、とは言えるはずがなかった。余計な話はしない方がいいのだ。余計な話をすれば、互いを理解しあうために多くの時間を要することになる。絡まった電話コードをほぐすように、お互いを少しずつ理解しなければならない。ようやくお互いを理解できたと思ったとしても、その理解はいかなる場合も不完全だ。人と人は完全には理解することはできない。理解できていると思っているだけに過ぎないのだ。
「それはよかった」とゲバルトは言った。それから何かを思い出したかのように「君も珈琲は飲むか?」と僕に訊いた。僕は頷いた。
 台所の近くに置かれたアンティーク調のテーブルに僕とゲバルトは座った。珈琲が湯気を立てている。僕は珈琲カップを手に持ち、口をつけた。香ばしい珈琲の香りが口のなかに広がった。
「おいしいです」と僕はゲバルトに言った。
「安物の珈琲だが。気に入ってもらってよかった」ゲバルトも珈琲を啜ったあと「ところで、昨夜のことについて話した方が良いかもしれないね」と言った。
「はい」僕は頷いた。
 ゲバルトはテーブルの下から何かを持ち上げ、それを机の上に置いた。それは昨日、僕が金槌を入れていたスポーツバッグだった。ゲバルトはゆっくりとジッパーを開けた。なかには、血がこびりついた金槌の柄が入っていた。棘のように尖っている柄の先には、しんぼるに突き刺したときに付いた肉が乾燥して干からびていた、まるでビーフジャーキーのように。ゲバルトは柄を手に持ち、くるくると回しながら、それを丹念に眺めた。
「これが昨日、君たちが言っていたしんぼるの血肉だね」とゲバルトが言った。
「はい。しんぼるを突き刺した時に付いたものです」
「しんぼるはまるで生き物のように息づいていた。そして、血を流した」とゲバルトは呟いた。
 しんぼるは、肺で呼吸をし、心臓を拍動させ、痛みも感じることができる、そう僕は心のなかで呟いた。
「そしてその血は僕の服にも付いています」と僕は言った。しんぼるの血は僕の鼠色のパーカーに赤黒い染みをつくっていた。金槌の柄と同じようにその血も干からびていた。
「予想以上にこの世界は変容してしまっているようだね」とゲバルトは言った。「君はたいへん気の毒だ。君の知らないうちに、君はこの変容した世界の主人公になってしまったんだから。これ以上に不条理なことはない。カフカが作り上げる不条理をも超えるほどの不条理だ」
 僕は、目覚めると虫に変容してしまうザムザを思い出した。カフカの『変身』だ。僕とザムザ、いったいどちらの方が不条理なのだろうか。
「ただ、その責任は僕にもあるんです。彼女をいつも見ていたことがその原因だった」
 ゲバルトはくすりと笑った。「人を見ることは悪いことじゃない。とうぜん、人に興味をもつことも同様だ。君に責任があるというわけではないよ」とゲバルトは言った。「まあ話を変えようじゃないか。ところで、まだしんぼるは六つもあるが、君は果たしてそれをやり遂げられるだろうか?」
「やれることはやります。もう、ここまできたら怖がることはありません。与えられた不条理に立ち向かうしかないと思います」と僕は言った。そもそもアルビナとしての呪いを受けた僕にはその不条理を回避することなど永遠にできるわけがないのだ。
 それから、僕はあることを疑問に思った。それは、あれほど完膚なきまでに破壊してしまった彫刻は今どのようになっているのか、ということだ。赤黒い肉がさらけ出された彫刻が見つかったら、世の中が混乱することは目に見えているじゃないか。
「ニュース」と僕は呟いた。「ニュースに彫刻が壊されたことについて何か報道されていませんでしたか?」
 ゲバルトはまるでその質問を予期していたかのような表情を浮かべた。「それについてなんだが、何もやっていない。今日はいたって平和なニュースしかやっていないんだ」とゲバルトは言った。「破壊された彫刻がどうなっているか、君は気になるだろ?」
「もちろん」僕は頷いた。
「先ほど、青葉シンボルロードに君が破壊した彫刻を見に行ってきたところだ」とゲバルトは言った。
「どうなっていました?」僕の声に力がこもる。
「何ということはない。そこにはいつもと変わらない互いにぶつかり合う二人の男がいただけさ」
「……つまり、何も壊れていなかったということですか?」
「ああ」ゲバルトはそう言ってから、珈琲を啜った。「だが、君はしんぼるを確かに破壊したはずだ。なぜなら、その流された血、そして、それにより生じた痛みの記憶がその証明だ」
「そうですね」と僕はいい、パーカーについた血を見つめた。しかし、彫刻が破壊されていないという事実は、僕のその確信を揺るがせた。破壊した彫刻が何も傷一つついていないなんて。あの血は、あの痛みは、何だったのか、そう思わざるを得なかった。しかし、今はもう信じるしかない、そうするしかないはずだ。

 ふいに、遠くで扉が開く音がした。足音がこちらに向かってくる。ひだまりにまどろむ子猫がようやく目を覚ましたのだろう。しばらくして、沙希は目をこすりながら、僕とゲバルトのいる台所へと入ってきた。大きな欠伸をしてからこちらを見つめたときには、彼女の瞳には冬の寒空が戻っていた。暗くて、寒くて、美しい冬の空だ。

 僕たちはテーブルを囲み、今後のしんぼるの破壊計画を立てることにした。残るしんぼるはまだ六つもある。そして残された日数も六日だ。
「残るしんぼるはまだ六つ」と僕は言った。「できるかぎり、早くしんぼるを壊したいと思う。今日中にしんぼるを二つ壊したいんだ。第二しんぼるが駿府城跡の徳川家康像、そして第三しんぼるがセノバの映画館の座席。今日のうちに、この二つのしんぼるを壊したいと思う」
「それはいい考えね」沙希はそう言ってからこくりと頷いた。「駿府城跡の東御門を出れば、すぐにセノバに向かうこともできるし。時間的にも二つを同時に破壊することができそうね」
「家康像については昨夜の彫刻の破壊と同様に金槌で破壊すればいいと思う。もちろん、金槌はまた買わなくてはいけないけれどね。問題は映画館の席だ。いったいどうやってそれを破壊すればいいのか、僕にはまるで見当がつかない。それに、君は一体なぜこんなものをしんぼるのモデルにしたのか、僕には分かりかねるよ」と僕は沙希を見て言った。