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詩に関するエッセイ

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通路としての文学



 文学作品は完結していない。それは読者の推定によって補われることで完結する。そして、その推定に際しては読者のバックグラウンドが反映されるから、推定によって完結する作品の中には当然読者の在り方が反映される。
 これはおおむね「受容理論」と呼ばれるものである。この理論については、結局、文学作品が読者のスケールの中に閉ざされてしまうことを明らかにしたものであるなどといわれる。だが、私は、文学がまさに読者のスケールの中に閉ざされることに、積極的な意味を見出したい。
 一言でいうと、文学作品は、読者が自らの人生を反省的に生きなおす通路としての機能を果たしている。もっと正確に言うと、単に反省的なだけではなく、読者は文学作品と向き合う時に自らを発掘する。記憶の深部に隠されたもの、意識の深部に隠されたもの、不意のひらめき、読者はそういうものを自分の中から発掘しながら文学作品の補完作業を行うのである。
 人間は、自分の人生に顕在的・潜在的に存在する多くの問題を解決しないまま日々を過ごしている。それらの問題は、精神分析的な立場からは、人間のさまざまな行為や心理に現れていると主張されるかもしれないが、特段解決されないままでも人間の日常生活に大きな支障をきたさない。人間が社会的な役割を果たしていくうえで、人生の文学的な問題など大して意味を持たないことが多い。だが、人間の成熟や人間性の深みなどは、それら人生の諸問題に答えを出し、さらにその答えを改訂し、さらに改訂し、という行為の積み重ねで醸成されるのである。そして、人生の大きな問題については、それに対して何らかの回答が与えられることで、人間の社会的な振る舞いも変わってくることがある。
 ところで、人生の諸問題は、それが問題として提示されなければ気づかれないことが多い。漠然と日々を過ごしていると、人間は自らの抱えている問題に気づかない。だが、文学作品は、それに向き合う読者に、さまざまな人生の問題を顕在化させる。そして、その顕在化の仕方が、まさに読者に即応した形でなされるのである。なぜなら、文学作品を完結させるのは読者の推定であり、その読者の推定において、読者の抱えている潜在的な問題が投影されるからである。それは、文学作品を読むという行為が、読者の自己発掘作業である、というまさにそのことに由来する。
 文学作品は、読者が、自らの抱えている問題の中を通過するための通路として機能しているのである。読者は、自らの抱えている問題を、文学作品を通過することによって、まず目撃する。目撃せず、文学作品を素通りすることもあるかもしれないが、幸運な読者は自分の問題を目撃することに成功する。目撃しても、それを「自らの」問題だとは思わないかもしれない。だがあるとき、幸運な読者はそれが自らの問題であると気づくだろう。そして、その段階を経て、さらに、真摯な読者であれば、その自らの問題に何らかのけじめをつける。あるいは、何度も同じ問題を目撃することで、徐々に自然に自らの律し方を変えていく。
 このようにして、文学作品は、読者が自らの問題を通過するための通路として機能する。例えば、作者の道徳的な諸問題を赤裸々に綴った作品があるとする。読者はその諸問題を読むにあたって、自らに照らし合わせた読み方をする。確かに自分にはこういうところもあったな、これはさすがに作者がひどすぎるだろう、などなど。読者は作品を読むことによって、例えば嘘をつくということがどういうことであるかについて考えを深めるかもしれない。作品との共同作業によって、嘘をつくということは自分を守るということである、などと閃くかもしれない。そのようにして、読者は作品を読むことで、作品に投影された自己をも読み、さらに、幸運であればそこに何らかの問題と解決の糸口を見出していく。

作品名:詩に関するエッセイ 作家名:Beamte