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田 ゆう(松本久司)
田 ゆう(松本久司)
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母の遺言

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母の遺言

1) 私の母(お袋)は大阪府南河内の生まれで5人姉妹の次女であり、この他に男兄弟もいたらしい。明治の生まれで、生きていれば104歳のはずだ。84歳で生涯を閉じたが私よりも面白く楽しい人生を歩んできたのではないかと思われる。そのことが私の幼少期の思い出となっていつも脳裏に浮かんでくるのである。
その幼少期の頃、お袋が早稲田や慶応の校歌や応援歌を歌っていたので私も早くからそれらの歌を口ずさむようになっていた。お袋がどのようにしてそれらの歌を覚えたのか、南河内にいたのでは河内音頭ぐらいが精々のところだろう。お袋は実際に早稲田や慶応の学生が歌うのを目の前で聞いて覚えたのである。それはどういうわけなのか。
学生たちが何かの機会で南河内までやって来て、そこで校歌を聞いたなんてことはまずありえない話である。だとすれば、こちらから東京まで出かけていって聞いたことになるが、当時そんなことが出来たのか疑問に思われるかもしれないが、それが出来たのである。つまり、南河内の田舎っぺが東京へ行き、そこで生活する機会が与えられたのである。チャンスなど、どこに転がっているか分からないとはまさにこのことを指しているのであろうか。
田舎の尋常小学校を卒業したお袋は、当時はごく普通に行われていたようにある商家へ奉公に出された。そこで行儀作法や一般常識を身に付けてお嫁入りするのが慣わしであった。ところが、ある時この商家が東京へ出て商売をすることになり、お袋は一家のものと同行することになった。落ち着き先は御茶ノ水辺りで、いよいよ東京での生活が始まったのである。でも、校歌はどうして覚えたのか。
これからの話は私の子供の頃の話でよく憶えていないので推測を交えるが、奉公先の商家では書生らを雇っていたのであろうか、仲間の学生たちがよく遊びにきては商家にタムロしていたようだ。お袋は若く美人(噂では)であったので用もないのに学生たちが寄ってきたのかもしれない。学生たちのやれることは校歌を歌うことや百人一首の替え歌を面白がって吹聴したり、中には真面目に英語を教えるヤツもいて、お袋の周りは商売には全く役に立たない暇な学生が取り巻いていたことが想像される。
おかげで禄でもない替え歌をお袋から教わる結果となり、今でも忘れることができず暗唱しているが、一方で、当時は珍しかったに違いない英語の教材を見たり大学校歌を覚えたりしたことは、その後の私の生き方に大なり小なり影響を与えたことは間違いない。ところで、偶然にしてはよく出来た話だが、大阪浪速区生まれのオヤジもその当時、水道橋辺りに住んでいたようで、なんでそんなところにいたのかは未だに知らないままである。
作品名:母の遺言 作家名:田 ゆう(松本久司)