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場末じみた場面

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私には、業界の大先輩であり、オヤジと慕う老人がいる。
毎年暮に、オヤジの家で手料理を振舞ってもらい、酒を飲むのが恒例だ。
しかし、今年は声がかかるのが遅かった。オヤジも高齢だから準備が大変なのだろうと、半ばあきらめていたところに「メシ食いにこいや」と声がかかった。

オヤジと最初に鮨屋で飲んだ時、車海老の炭火焼を頭からガブリと齧ったことが妙に気に入られた。それからの付き合いだ。
このオヤジは、今でこそ営業マンをしているが、元魚屋で元組関係者という豪の者だ。
背中に立派な彫り物が入っているが、魚を捌く腕は一流である。
アンコウ鍋とマグロの中トロ、鯛にハマチの刺身。もちろん車海老の焼き物もついてきた。
今回も車海老を頭からガブリと齧った。
「良い食いっぷりだ」そう言ってオヤジは目を細めた。

オヤジは今年で75歳になる。
59歳11ヶ月と25日でこの世を去った父親が、もし生きていれば、同じ歳である。
思い返せば、私は親不孝者だった。それに気が付いた時には、もう遅かった。
その事が私を苛み、いたたまれない気持ちになる事が時々ある。そんな時は実家の母親を訪ねる。
「おなか減ってないかい?」母親はそう言って、古い薬缶に湯を沸かし、鍋を火にかける。
「寒くないかい」そう言って、母親は灯油ストーブに火を入れる
他愛のない会話をし、母親の作った食事を胃袋に収める。
「忙しくってさ」生活が順調であることをアピールし、なかなか実家へ帰れないことへの言い訳をする。
「玄関先でいいよ」と言っても、母親は通りまで出て、自宅に帰る私の車のテールランプを心配そうに見送っている。

オヤジは、家でメシを食った後に「ちょっと、つきあえや」
そう言って私をタクシーに押し込んみ、「福富町」と運転手に告げた。
「なじみの店があるんだ。ババアっきゃ居ねえけどよ」
オヤジに連れて行かれた店は「場末」と言う言葉が似合いそうな古いスナックだった。
「来たぞ」オヤジがママと思われる年配の女性に声をかけた。
「今日は、友達、を連れてきた」
「あら、そう。友達ね」
カウンターに座るとジャックダニエルのボトルと、ロックグラスが二つ出てきた。
ママは二つのグラスにジャックダニエルを注いだ。オヤジと私はグラスを手に取り、縁をカチンと合わせた。
「あと、5年…」オヤジの目はママと私の中間辺りを見つめていた。
「あと、5年、よろしく頼むな」
「ええ、もちろんです」私はグラスを口に運んだ。
ママは無言で、煮物を小鉢に盛り付けていた。
そして、私はオヤジが口にした「5年」の意味に思いを馳せた。

父親の死を5年前に予見できたのなら。私は何をしてあげられたのだろうか?
きっと、何も出来なかったのだろう。それまでの30年間、何も出来なかったのだから。
一緒に普段と変わらぬ食卓に着き、母親の料理を食べ、他愛のない会話をし、愚痴を吐き、テレビのナイター中継でジャイアンツを応援し、兄弟げんかを窘められ、もしかしたらこんな風に一緒に酒を飲んだりしたのかも知れない。

「今夜は雨が降るから、寄り道しないで、真っ直ぐ帰れよ」そう言い残して、オヤジはタクシーに乗り込んだ。
街には冷たい風が吹いていた。私はコートの襟を立てて通りに立ち、空車のタクシーが通るのを待った。

「あと5年」でオヤジは80歳になる。
漁師の家に生まれ、魚屋になった。組に出入りするようになり、体に墨を入れた。
晩年はカタギになり、建設業の営業になった。知っているのはこれだけだ。
私の父親が病死した時、母親は動かなくなった父親の胸を、小さな拳で叩きながら「うそつきっ!がんばるって言ったじゃないっ!」と泣いた。
その時まで、私は彼女を母親としてだけ見てきた。その母親の口から発せられた女の声に、少し戸惑いを感じた。
母親は、友人から無理やり誘われたダンスパーティーの夜に父親と出会い、恋に落ちた。やがて二人は結ばれ、私と弟が生まれた。
知っているのは、それだけだ。

「どうしますか?」
はっ、と我に帰るとタクシーが私の前に停まっていて、ドアが開いていた。運転手が困ったような顔をしている。
「ああ、忘れ物をしたようだ。待たせて悪かったね」
運転手は無言でドアを閉め、タクシーは苛立たしげにアクセルを吹かして走り去った。
私は歩道を家路と反対方面に歩き出した。オヤジの言ったとおり、冷たい雨が降り出した。

縁が傷んでいるステンドグラスのドアを押し開けると、鈴がチリンと鳴った。
「いらっしゃい。あら」
私はさっきまでオヤジと飲んでいた店に戻った。気まずそうな顔をしていたのかもしれない。
「ずいぶんと久しぶりじゃない。わすれもの?」チクリとやられた。
カウンターの上にはジャックダニエルのボトルが、まだ置いたままだった。。
「飲み足りなくてさ。お店、何時まで?」
「お客さんが帰るまでよ。同じので良いの?」
「うん」私はカウンターの椅子に腰を下ろした。
「雨が降り出したのね」そう言ってママは、私に乾いたタオルを差し出した。
「ありがとう」私は頭についた水滴を拭った。
ママは店を閉めようとしていたのだろう。迷惑だったか?気の利いた言葉の一つでも、と思った。
「ママは昔、綺麗だったでしょう?」お世辞ではなかった。
「昔、は余計よ」そう言って、グラスをカウンターに置いた。私は両肘をカウンターの上に置き、組み合わせた手を無意味に動かしていた。戸外から酔客の笑い声が聞こえた。
グラスに氷が落ちる音が店内に響いた。ママはジャックダニエルをボトルから注いだ。
私はそれを無言で受け取り、口に運んでチビリと舐めた。
「で、何を聞きたいの?」お見通しという訳か。
「そうだな、ママの話を聞かせてよ。若い時の恋話とかさ」
「あの人との事かしら?」ママはタバコに火をつけた。
私はグラスを口に運んだ。「聞きたいな」
「話せば長くなるわね」ママは煙を深く吐き出した。それはため息のようにも聞こえた。

病室のベッドに横たわる父親に繋がれていた計器が外された。
母親は冷たくなった父親の薄い胸を小さな拳で叩き「うそつきっ!がんばるよって言ったじゃないっ!」と泣き崩れた。
私は母親と父親を、二人だけにしてあげなければいけないと感じ、泣きべそをかいている弟を促し、静かに病室を出た。
葬儀の後、父親は荼毘にふされ、灰になり陶器の壷に入れられた。
母親は親戚の反対を押し切り、新しい墓を買い、父親をそこに納めた。
「俺達はこの墓に入ってもいいの?」私は母親に聞いた。
「当たり前でしょ」まじめな答えが返ってきた。
私は「二人の邪魔をしていいのか?」と、傷心の母親を励まそうと、からかったつもりだったのだ。
「お父さんね・・・」母親は新しい墓石を見つめながら言った。
「お父さんね、あの後ね、ほんの一瞬だけ目を開けたのね、そして・・・」
私も新しい墓石を見つめていた。瞬きをすれば涙が零れてしまいそうなので、動けなかった。
「・・・そして、ごめんって言ったんだよ」
限界だった。息を止め、喉の奥に力を入れて、涙を堪えていたが、無理だった。
私は無様に鼻水と涙を垂らし、子供のように泣いていた。
母親の小さな手が私の背中に当てられた。
何十年も忘れていた温もりだった。
作品名:場末じみた場面 作家名:Takeo Kawai