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Ramaneyya Vagga

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Metempsychosis of Buddha Sakyamuni[未完]


 山荘を借り切ってパーティをやっていたときのことだ。俺たちは外に作ったフロアにいた。早朝で、太陽が現われたばかりで、山々とみなの姿がひときわ美しくなる、あの時間だった。Dark psyが空に飛んでいって、みなの祈りを空へ運んでいく、あの風景だ。そんなとき、そのことを話し始めたのは、さっちゃんだった。
 「ブッダが生きてるんだって、会いたい!」
 さっちゃんからはこれまでもずいぶん馬鹿馬鹿しい話を聞かされてきた。それは主に彼の思いつきであって、文字通り勘違いに過ぎないことが多いのだが--ただしそれは極めて愉快だ--不思議なことに、そこに最も美しい真理が見えることがときおりあった。この彼の驚くべきひらめきゆえというわけでもなく、俺は彼を敬愛しているのだが、しかし今度ばかりは承服しかねた。それは彼の酒に飲まれた不真面目な形相ゆえではなく、論理的な問題ゆえだ。
 「ブッダって、あの仏陀? 誰に聞いたの?」
 「なんかツイッターでさ、インドで話題になってるんだって」
 それがどうしたと言うのだ。仏陀釈迦牟尼といえば二千五百年も前に死んだ人ではないか。ピプラーワーで発掘された骨壷--俺はこれこそがアショーカ王が唯一開かなかったという仏陀の故郷の舎利塔のものに違いないと踏んでいるが--をはじめ、象ほどもあるとはいえ世界各地に骨が伝えられているし、あの涅槃の図はどうなるというのだ。仏陀が死んだという事実を持って不滅は否定されえたのではなかったのか。
 「それは、仏陀が死ななかったってこと?」
 「わかんない。転生じゃない? 転生!」
 なにを言っているのだこの人は。俺が知る限り、仏陀は霊魂だの転生だのということを説かなかった。まったく逆だ。"これは俺である""俺は自然とは別に不滅のものとして存在している"という見解こそが苦の原因であると知ったことを悟りと呼んでいるのではなかったか。その人が、"私は転生しました。私はここにいます"とでも言っているというのか。
 「それで、仏陀はいまインドのどこにいるの?」
 「えーっと……ピ、ピ……ピプなんとか」
 「ピプラーワー?」
 「それ!」
 ピプラーワーか……一瞬、インドの田園--ピプラーワーはたいそうのどかな土地だと聞いている--で木陰に座っている、痩せた剃髪僧を思い描いたことは、認めなければならない。故郷カピラヴァストゥでいまも生きている托鉢僧。もし本当にいるならば行って会わねばなるまい。だがここが問題だ。本当にいるなら、だ。
 「で、さっちゃんは本当だと思うの?」
 「本当だと思うよ! だってブッダだよ、ブッダ。全知全能でしょ?」
 無責任にもほどがある。とはいえ神と仏の区別もつけぬこの因習は、もう千年以上の伝統を持つのだから、さっちゃんを責めるわけにもいかない。
 それに、彼のこの話は、とても愉快だった。


 探してみると、この話の出所は、Hindustan Times誌のウッタル・プラデーシュ版の記事らしかった。

   ピプラーワーに現われたブッダ・シャーキャムニ

 ピプラーワーにゴータマと名乗る行者が現われたという。ピプラーワーの村長、ムハンダス・アンギラーサさんは、本誌に次のように語った。
 "初めに会ったのは村娘のバクティでがんす。あの子が朝に牛たちを散歩させておりますと、川辺の木陰に坊主頭のババジーが居んなさるので、
 「ババジーはどっから来んしゃった」
 とお尋ねしましたところ、
 「来たれ。そして見よ、修行を続けてきた者を」
 と言いなさる。そこでバクティは「へえ、よござんすよ」と承って、近づいてそのお人を見ましたところ、痩せて体中を蚊に食われて、バクティはとても見ていらんない気持ちになったそうでがす。それで牛たちに草を食わせておいて、急いで家にとって返しまして、マンゴーと栴檀の香をひっつかんで、そのお人にお供えしたんでがす。ババジーはマンゴーをお食べになって、バクティは栴檀香を焚いて蚊を追い払ってやったんでがすな。ババジーはなんにもおっしゃらなかったんでがすが、バクティはまだほんの子供でがんして、
 「ババジー、なんか心が楽しくなることを言ってちょんだい」
 と言ったところ、
 「心満足して、真理を見るならば、孤独は楽しい。人々に対して暴力なく、生きとし生けるものに対して身を慎むのは、楽しい。世間に対する貪欲を去り、もろもろの欲望を乗り越えることは楽しい。俺がここにいるのだという慢心を制することは、最上の楽しみである」
 とお答えになる。バクティはよくわからないなりに、そのお人のお声の調子が、お優しかったんでがんしょ、すっかり楽しくなりやんして、そのお人に合掌すると、牛を連れて家に帰ってから、わっしのところへ飛んできて、
 「村長どん、立派なババジーが来なしゃった」
 と告げるものだから、わっしはバクティと一緒にそのお人のところへ行ったんでがす。見ればお目は清らかでどんな形の暴力も感じません。わっしはこれはきっと名のあるババジーに違いないと思いまして、膝をついて合掌しまして、
 「あなたはどんな名をお持ちですか? あなたはなにを目指して出家したのですか? あなたはどんな修行をしてこられたのですか?」
 とお尋ねしますと、
 「わたくしはゴータマです。わたくしは二十九歳で、善を求めて出家しました。わたくしは出家してから二千五百年余りとなりました。正理と法の領域のみを歩んできました」
 とお答えになる。わっしはそれはもうたまげまして、なにはともあれ、この方の望まれることを叶えてさしあげたい気持ちになりまして、
 「あなたはなにを望まれますか? わっしに供養をさせておくんなまし」
 と言いますと、ただ、
 「来たれ。そして見よ、修行を続けてきた者を」
 とおっしゃるんでがす。"
 この"出家して二千五百年"になるゴータマという行者は、いまもピプラーワー村の森に住んでおり、毎朝村へ托鉢に出かけ、乞われれば説法を行っているという。スリランカのマヒンダ長老、ダラムサラのダライ・ラマ法王庁は、本誌の取材に対し、近く調査団を派遣すると答えた。
 ピプラーワーは仏教の開祖ブッダ・シャーキャムニの故郷カピラヴァストゥに比定されており、ブッダ・シャーキャムニの銘が入った骨壷が発掘されている。

 インターネット版には乗っておらず、印刷版の写真があった。これはそもそも記事に出てくるピプラーワー村長が、自身のツイッターで投稿したのが初めらしい。"来たれ。そして見よ、修行を続けてきた者を"との行者の望みを叶えようという気持ちからということである。
 よくできた話ではある。行者が少女に言った"心が楽しくなる"話は、Mahavagga?,3,1-4だ。"わたくしは二十九歳で……"はMahaparinibbana-Suttanta5-27だ。これが誰かが書いた脚本だとして--論理学的にはこの命題は真で、そして論理学とは自然の性質についての学問なのだが--その脚本家は仏典に精通していよう。そして村おこしとしてはこれ以上効果的な演劇は他にない。今ごろピプラーワー村は世界中からの観光客、巡礼者を向かえて大賑わいだろう。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu