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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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この声が届くまで 続この心が声になるなら

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どうしたの、と声がした。すっと手が伸びてきたのが、視界に入って、その響きに導かれるように顔を上げた。
 その瞬間、世界は優しい橙色に染まって見えた。

「この子は生まれつき、普通の人とは違う世界を見ているんです」
 わざわざ電車を何本も乗り継いで連れて行かれた大きな街の病院で、あれこれいろいろなテストを受けさせられた末に医者から告げられた言葉は、俺を絶望させて、両親をほっとさせた。
 親は何度も何度も俺に泣きながら謝った。こんな風に生んじゃってごめんね、わからなくて怒ってごめんね、と。だけど同時に聞こえた気がした。「私たちのしつけが悪かったせいじゃないんだ」、という母の声が。
 別に親を恨む気持ちはなかった。今でも両親のことは大好きだし、両親も俺のことを愛してくれているし、あんな情報の届きにくい、子どもになにかあれば「犯人探し」が始まってしまうような田舎で、誰にも相談できずに苦労したことだろう。
 謝ってもらわなくて良かった。そんなこと、どうだってよかった。
 ただ、俺はやっぱりおかしいんだ。生まれつき欠陥品なんだ、と、その事実を突きつけられた気がしたんだ。
 欠陥品なんて字を、読めも書けもしないのに。


 学年で一番最初に、かけ算九九を覚えた。
 朗読がとっても上手だと、よく先生にほめてもらった。
 その先生に、学芸会で主役にしてもらった。一度お母さんと一緒に練習したら、たったそれだけで台本を全部覚えることができて、お母さんがすごくびっくりした。先生が面白がったのだろう、修吾の為に見せ場を作ってあげようと言って、小学校一年生の劇の台本にはまずありえないほどの長い台詞のある場面を用意してくれた。それを言い切ったあとの、体育館の空気がぐわんと動いたような音と、クラスのみんなの顔を、俺は今でもはっきり覚えている。
 どんなことでも一度聞けば覚えることができた。
 モノマネが得意で、よく友達にせがまれた。
 小さい頃は、家族みんなが、この子は天才じゃないかと言ってくれた。それがすごく誇らしかったし、そうなんだろうと思っていた。
 家族の嬉しそうな顔が、不安そうなそれに変わっていったのは、小学校三年生に上がる頃だったと思う。
 ノートを取るのが間に合わなかった。先生が黒板に書いた文字は、読み終わる前に消された。漢字が増えるにつれて、それはどんどん悪化していった。得意なはずの朗読が、つらくなった。読むのに時間がかかりすぎるからだった。一年生ぐらいの頃は、ちょっと読み書きが遅いんだろうぐらいにしか思われていなかったのが、はっきり、おかしいと言われるようになった。
 なんで、みんなはそんなに速く読めるんだろうと思っていた。自分が特に読めないんだと気づいたとき、どうしようもなく心がもやもやとした。俺は、バカなのかと。その頃には、家族は俺を天才だとは言わなくなっていた。
 先生が話して説明してくれればわかるのに、どうしてこんなに教科書や黒板に書いてあることがわからないんだろう。計算だってできるしお話の中の人の気持ちだってちゃんとわかるのに、宿題もテストもプリントも、書けないからできない。先生は俺をバカだとは言わなかった。だけど、先生にお母さんが呼び出された次の日、俺は両親と、高校を休んでついてきてくれた一番上の兄ちゃんと一緒に、県境をふたつ越えた遠い大きな街の大学病院に連れていかれた。
 いろんな検査を受けて、伝えられたことは、俺は生まれつきの頭の問題のせいで字が読めないこと、それから、俺の音の聞こえ方は、他の人とは違うこと、だった。
 俺はどんなに頑張っても、一生懸命勉強しても、少しは上手になったとしても、みんなのようには字が読めるようにならないのだと、そのかわり、俺には他の人よりも、音をより深く感じる力があるのだと言われた。
 そのあとから、学校の生活は変わった。俺はノートを取らなくてもいいことになったし、聞けば全部声で説明してくれるようになった。
 テストも、俺だけ別の部屋で、先生の出す問題を言葉で答える、という形に変わった。
 勉強は特別得意ではなかったけど普通についていけるようになった。親や先生が心配したほど、俺の「特別扱い」をやっかんだりからかったりする同級生もいなかった。先生や友達にも恵まれていたんだと思う。学芸会や文化祭の演劇では、高校三年生までずっと、主役を張り続けた。
 だけど、拭えなかった。
 俺があの日心に落ちてきた「それ」を、そのまま俺のものだと諦めて受け止めるまでに、それから二十年近くの時間がかかることになることを、上手く声にできないもどかしさを抱えた小さい俺は、まだ知らない。


 夏芽さんが電話に出ない。何度鳴らしても。最初の電話から十五分、俺はバイト先に遅れる旨電話を入れて、降りなきゃいけないはずだった駅の三駅手前で電車を飛び降りた。
 こんな不規則な仕事で、超売れっ子で忙しいのに、……もしかしたら、だからこそ、夏芽さんの朝は意外と規則正しい。目を覚ます時間、少し寝起きの悪い夏芽さんがベッドから這い出す時間、朝ご飯を食べ始める時間、それが毎日ほぼ同じなことを、俺は知っている。それを知ることができる場所にいる。あの、漫画みたいな奇跡の四日間から。たとえオフであっても、そこまでの一連の流れは変わらない。だから今はいつも通りなら、とっくに起きて朝ご飯を食べ終わっているぐらいの時間のはずだ。
 毎朝、夏芽さんほど規則正しくない俺はアラームをかけて、夏芽さんに電話をする。あのおひさまみたいな色の声を聞かないと、一日が始まる気がしないのだ。
 たった四ヶ月ぐらいだというのに、恋人としてあのひとにあの声を聞かせてもらえる、そんな贅沢が、もう当たり前の、欠かせない日常になっている。それまでの五年間の長い長い片思いの日々が、すごく遠くなっていく。
名前を呼べる、振り向いてくれる。本人曰く「ほんとうの自分」である時の、少し表情や感情表現が控えめな夏芽さんは、それでも少しずつ、ためらわないで笑ってくれるようになっている。見たことのなかった夏芽さんのその顔を見るたびに、もっと、もっとと思ってしまう。もっと、夏芽さんが安心して気持ちを出せるような男になりたいと。
 だから、ほんとはもっとずっと一緒にいたい。もっと、夏芽さんの日常生活の中にいたい。声を、ずっと聴いていたい。
 あまりに幸せで、どんどん贅沢を覚えてしまって、だけど、だから怖い。もし急に夏芽さんになにかあったら。
 あの時期一番楽しみにしていた仕事場についたら、いつも俺より少し早くいるはずのあのひとの姿がなくて、夏芽さんと同じ事務所の同期から駅で倒れて入院したと聞いたときの恐怖を、俺ははっきり思い出せる。大丈夫だろうか、重い病気だったらどうしよう、あの声を、あのひとの口からこぼれる言葉を、二度と聴けなくなったらどうしよう。財布の中身をほぼすっからかんにしながら飛び乗ったタクシーのついた先で、白いベッドに横たわる夏芽さんはひどく顔色が悪くて、先週の収録で会った時より痩せていて、なのに「心配をかけてごめん」なんて言って笑ってて、胸が、どうしようもなく苦しくなった。
 まだ俺は足りないですか。