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アインシュタイン・ハイツ 102号室

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 俺が頷くのとほとんど同時にミドリさんが戻ってきて、「熱いので気をつけて飲んでくださいね」と言いながら湯気の立つマグカップを差し出してくれた。
 志摩さんに背中を支えられて起きあがり、おそるおそる口にしたそれは、熱でしびれた舌にもじんじんと熱かった。

■■■

 熱いものを飲んだ所為か、それともただ単に風邪の所為か、ミドリさんと志摩さんがそれぞれの部屋に引き上げてから、熱は本当に景気良く上がった。
「風邪の時はとにかく寝るもんだよ」と志摩さんは言っていたが、あまりに熱が高いとうまく眠ることが出来ない。何度もうとうとしては目が覚めて、そのたびに節々が痛むことや呼吸が苦しいこと、頭の芯は燃えるようなのに体はガクガクとふるえて仕方がないことなんかに、ものすごい絶望を感じたりした。風邪なんて大した病気でもない筈なのに、自分がそれ以上になにか果てのない、大きな、例えば不治の病と呼ばれるようなものすごい病気と戦っているような錯覚を覚えたりもした。
 そしていい加減に熱も上がりきり、眠っていてもぐらぐら揺れる頭の中の感覚にうわー、俺死ぬのかな、と思った瞬間、俺はちょっとした夢を見た。
 それが本当に夢だったかどうかはわからない。そのときの俺は夢と現実とがごっちゃになっていて、何もかもよくわかっていないような状態だったので、夢だった、と思いたいだけなのかも知れない。
 とにかく、その夢の中で俺は三歳か四歳ぐらいの子供になっていた。現実問題として十八歳の俺がいきなりそんな子供になれるわけがないので、その設定だけは夢だ。それだけは確信が持てる。だけれどそれ以外のことには何一つ自信がもてないまま、俺はただ目の前に広がる走馬燈のワンシーンを切り取ったような情景に見入った。
 子供の俺は滅多に着た記憶のないよそ行きを着て、どこか古い家の居間のような空間で、大きなグランドピアノの前に座り、ご機嫌にはしゃいでいた。
 その場所がどこだったか、俺は知っていた。俺が七歳になるまで住んでいた、昔の家の居間だ。
 その家は駅からかなり離れた郊外にあった。元は喫茶店か何かを営んでいたらしい洋風で二階建の一軒家で、お化け屋敷よろしく壁という壁に枯れた蔦が鬱蒼とまとわりついていた。内部も本気で幽霊が出そうなほど古かったが居心地は良く、その家で母は俺が生まれるまでピアノ教室を営んでいたので、居間に大きなグランドピアノが置いてあったのだ。
 とは言うものの、俺は母からピアノを習ったことはなかった。母は何度か教えようとしたらしいが、俺がピアノにまったく興味を示さなかったので、早々にあきらめてしまったらしい。
 だから、ピアノの前に座ってはいても、そのピアノを弾いていたのは俺ではなかった。家族でピアノを嗜んでいたのは母一人だったから、それなら母かと思えばそうでもなく、平たい長椅子に座る俺の隣に腰を下ろし、しなやかな指先でなめらかに鍵盤を叩いていたのは、黒いスーツを着た一人の青年だった。
 それが叔父だ、と気がつくまで、ほんの少し時間がかかった。俺の一番古い記憶の中にある叔父の姿よりも、その叔父がずいぶんと若かった所為だ。その上俺の記憶にある限り、叔父がピアノを弾けたなんて話は聞いたことがないから、気がつくのによけい時間がかかったのも当たり前であろう。
 その叔父はピアノ教師だった母よりも見事に鍵盤を操り、俺は叔父が弾くピアノの旋律に合わせて、ものすごく機嫌良く声を張り上げて歌っていた。何を歌っているのかと思えば昔俺がよく見ていたアニメの主題歌で、叔父は楽譜もなにも見ずに、へたくそな俺の歌声に合わせておもしろそうに笑いながら、びっくりするほど流暢に伴奏してくれている。
 やがて曲が終わり、俺が歌い終えて振り向くと、窓際に置かれた来客セットのソファに腰掛けて俺の歌を聴いていた両親が、笑いながら大きな拍手をしてくれた。「上手だったよ」とおだてられて調子にのった俺が笑うと、両親が座っているソファの向かいに腰を下ろしていた誰かが、ふわっと身軽に立ち上がって俺を手招いた。

「カズくん、こっちおいでよ」

 立ち上がったのは一人の女の人だった。いや、女の人、ではない。女性と呼ぶにはまだぜんぜん若く、その証拠に、その人はどこかの学校の制服らしいセーラー服を着ていた。
 少し低めの声で名前を呼ばれ、俺が駆け寄ると、その人は俺の両脇に手を差し込み、「わあ、カズくん重たくなったなぁ」なんて言いながら俺を抱き上げて、視線の高さを同じにした。
 覗き込んでくる目をまっすぐに見返すと、その人は子供みたいな鮮やかさで屈託なく微笑んだ。
「ねーぇ、次はお姉ちゃんと一緒に歌おう?保育園で習ったお歌をお姉ちゃんに教えてくれるって、こないだ電話で約束してくれたでしょう」
「なんだそれ。カズキ、おじさんに内緒で姉ちゃんとそんな約束したのか?で、どんな歌習ったんだ」
 叔父が笑って、その人は俺を抱えたまま叔父の隣に腰を下ろした。
 叔父の問いに俺がどう答えたのか、俺は覚えていない。叔父が再び鍵盤に手を置いて軽快なメロディの曲を弾き始め、歌いだした俺のがむしゃらな声に、その人の歌声がそっと寄り添った。
 終わりがちょっと掠れる低い声。波音のような、木々のざわめきのような、そんな耳に心地の良い響き。
 夢の中で俺は目を見開いた。間違えようがない。それは昼間聞いたばかりのあの不思議な歌を歌った、あの声だったのだ。
 そうして、こりゃ一体どういうことだろう、と驚愕のあまり目を覚ましたら、目の前に本当にその人がいたので、俺は尚更驚いた。
 すでに見慣れてしまった叔父の部屋の天井を遮るように、その人は真上から俺のことをじっと見下ろしていた。しかもよくよく見てみれば、その人の体を透かして微かに天井の木目が見えており、半透明の幽霊に真上からじっと覗きこまれるなんてホラー映画によくある怖い展開の筈だが、不思議と恐怖をまったく感じなかったのは、その人が浮かべていた表情の所為かも知れない。
 その人は眉間に深く皺を寄せて、ものすごく心配そうな顔でじっと俺を見ていた。触れても良いのかどうか迷うように、細い指先を何度も俺の顔の上で彷徨わせては引き戻し、おろおろと辺りを見渡しては肩を落として溜息をつく仕草は、ほとんど泣きそうと言っても過言じゃない程だった。
「――……そんな、心配しなくたって大丈夫だって」
 だから、その顔にほだされてしまった、と言うのが多分、正しい所だろう。なんたって俺は歴とした現代ッ子なので、便所にも一人で行けない子供の頃ならともかく、今では幽霊の存在なんて正直、これっぽっちも信じてはいない。なのでこの人が実在しない人間なら――……つまりは幽霊とか、何かそういう類のものであるなら、それは当然高熱の所為で見た幻か何かだと理性的に片づけて無視するべきだし、体が半分透けてる人間なんて居るわけがないが、仮に実在するなら市民の義務として即座に「部屋に半透明のよくわからない人がいます」と、警察かテレビ局に通報しなければならないところだ。