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きんもくせい

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 彼女から借りる本は、いつも金木犀の香りがしていた。

「柑奈(かんな)ちゃん、『駆落』読んだ?」
 国語の授業が終わり、机の上を片付けていた私に彼女は話しかけてきた。長い黒髪がいつもきれいな私の友人、斉藤朱音(あかね)だった。
「見たよ」
 はいこれ、と私はカバンの中にしまっていた文庫本を手渡した。この本を取りだすだけで、ふわりとした甘い香りがする。金木犀の香りだ。
「どうだった?」
 朱音とはこうして本を貸し借りしあう仲で、私はそれが大好きだった。
朱音から借りる本には手作りらしい金木犀のしおりがいつも挟まっているせいか、金木犀は、私の中で朱音のイメージになっていた。
「……まぁまぁ、かな」
 感想をつぶやくと、彼女はそっかとこぼした。次の授業が終われば、昼休みだ。そのときになればまた、この本について話すだろう。タイミングよく鳴り始めたチャイムに、朱音はまたねと言って席へ戻っていった。



 『舞姫』で有名な森鷗外が訳した、リルケの『駆落』は男女の恋物語かと思わせた人間くさい話だった。
 十代の男女……フリッツとアンナが自分の置かれた境遇に嫌気がさし、早朝の汽車に乗って駆け落ちをしようと約束する。しかし、フリッツは考えているうちに駆け落ちすることが怖くなり愛しいと思っていたアンナを馬鹿呼ばわりしはじめる。次の日の朝、フリッツが駅に行くとアンナがいなかったため、フリッツは大喜びで引き返す。しかし、発車寸前の汽車に飛び乗るアンナらしき女が見えて、気づかれる前にフリッツは家に逃げ帰ってしまった、という話だ。ハッピーエンドなんて存在しない、人間の話。
「ここ、テストにでるからなぁー」
 目の前では社会の先生が黒板をばんばんとたたいて、手形をつける。私はふうと息をついて、文字の羅列にペンで線を引いた。フリッツのように授業に嫌気がさしても、どこか遠い町に逃げることなんてできない。そういうものだ。
 朱音とは中学一年のときに同じクラスで、春に自己紹介シートを書かされ、趣味の欄に読書と書いた。それのせいか、同じく趣味の欄に読書と書いた朱音が私に声をかけてきた。はじめは何の本が好きなのか、とかそんなだったと思う。それから読む本の好みが似ていたことがあって、朱音と本を貸し借りし合うようになり……今に至るということだ。
「じゃあ次はー、斉藤。読んでくれ」
 先生に当てられ、朱音は教科書の文を読む。朱音は容姿端麗なせいか、男子からは高評価、女子からは羨望の眼差しで見られている。同じ女として確かに朱音はきれいでうらやましいと思う。シャンプーは何を使っているんだとか、何か毎日している美容の秘訣はあるのか、なんて。恥ずかしいから聞きはしないけど。
「じゃあ今日はこれまで」
 朱音の声をしんしんと聞いていると(朱音の声はしっとりと聞きやすくて好きだったりする)、チャイムが授業の終わりを告げ、先生が時間配分間違ったなぁなどと声をあげていたが、待ちに待った昼休みに生徒は聞く耳を持たず片付けを始めていた。私も同じように片していると、私よりも前の方に座っている朱音がこちらを振り向いてにっこりと笑っていた。はいはい、今日はそっちに向かいますよ。了承を示すようにカバンに入っていたお弁当を出して持ち上げると、朱音はきれいなその顔で静かに笑んだ。

「あの『駆落』は好き嫌いがはっきりする作品ね」
 訳された作品だから多少は森鷗外の解釈が入ってるだろうけど、と朱音はしなやかな指で箸をあやつってぷすりとミートボールを刺した。外見はきれいなのに意外にも行儀が悪い朱音はよく物を刺して食べている。何度か注意しても治らないあたり、多分治す気がないのだと思う。
「ただとても当を得た作品だとは思うわ」
 ぷす、ぷす。卵焼きもウインナーも刺す。あわれ刺されたものたちは朱音の口のなかに吸い込まれて、もぐもぐとくだかれる。私はそれを見ながら、昨日の夜に読んでいた『駆落』のことを考える。
「柑奈ちゃんは、未来で一緒になる心中と、将来一緒になる駆け落ちって、どっちが幸せだと思う?」
 心中と、駆け落ち。それはどちらも愛の形で、生きるか死ぬかという選択。ただどちらにも共通するのは、逃げるということだ。
「心中といえば、曽根崎心中よね」
 古さとしては心中のほうが先なのかな、と朱音は箸でつるつるとウインナーをもてあそんでいる。心中が先か駆け落ちが先かはわからないけど、それだけ人の愛は報われないことが多いのだろう。
「昔は男女の双子が生まれたとき、心中した男女の生まれ変わりだって忌み嫌われて、片方を殺すことがあったみたい」
 私がそう言うと、朱音はへえと笑った。何の本かは忘れたけれど、そういう記述があったことは間違いなかった。心中は生まれ変わったって、忌み嫌われる。あの世なんて私は信じていないから、一緒に死んだって果たしてそのあとに幸せになったかどうかはわからない。
「柑奈ちゃんは駆け落ちのほうが幸せだって思うの?」
 朱音はらんらんとした目で、私を見ていた。あんな作品を読ませておいて、駆け落ちが幸せだよなんて、言えない。
「その『駆落』にもあったけどね、一緒に逃げたって、果たして幸せのままずっと過ごせるかわからない。家を捨てるんだから貧乏になるだろうし、楽な生活なんて望めない」
 なんで楽しい昼休憩にこんな話をしているんだろう。食欲が失せそうだ。けれど、朱音は私の話を聞きながら、弁当を食べ、私も倣って弁当を食べる。人間、生きるためなら気持ちなんて関係ない。
「ずっと好きでい続けるなんて、きっと無理な話なんじゃないかな」
 そう言うと、私は煮っころがしを口に放り込んだ。朱音は神妙な顔をして、ふんふんと言っている。口のなかで、さといもがころころと溶けていく。
「そうだね。わたしも愛とか恋とか怖いよ。すごく」
 あはは、とごまかしたような笑いを浮かべながら、朱音はそれ以上聞こうとせずに、弁当のなかのおかずに夢中になった。私もゆっくりと夢中になって、ポテトサラダを口に運んだ。愛だとか恋だとか、世の中はそういうものに満たされていて、朱音のことを好きな男子がいるだとか、その男子をある女子が好きだとか、そういうくだらない世界に私も組み込まれている。愛のために心中も駆け落ちもできないような、まっとうでいて、愛をまっとうしない世の中。なんて不条理。
「人生をおもちゃにする、か」
 駆け落ちするために、一人汽車に乗り込むアンナを、『駆落』はそう表現した。人生をおもちゃにしようとしている、弱々しい少女。きっと一人では生きてはいけない少女を、フリッツは恐怖して見捨てた。かわいそうなアンナは、汽車に乗ってどこへ行ってしまったんだろう。誰が一体彼女を幸せにできるんだろう。
「二人に芽生えた愛は、ただのおもちゃだったのかな?」
 私のぼそりとしたつぶやきに、朱音は笑った。わからない。わからないけど、きっとアンナはおもちゃじゃなかったのかもしれない。赤い帽子を被って、必死で生きる覚悟をして汽車へと駆けたアンナは、そのときこそは本気だったんだから。フリッツは駆け落ちするには臆病で、まだ子どもだった。私と同じ。私もひどく臆病で、とても子どもだ。
作品名:きんもくせい 作家名:べす