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和尚さんの法話 「仏教と占い」

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貴方様が説いてあるように、そうなって来たときに、衆生はいったいどうしたらいいのかと、どうして救っていったらいいのでしょうかと、こういうお尋ねなんですね。

そうしましたらお釈迦様は、その時代には一人の菩薩有り、その名前は地蔵菩薩というんだと。その地蔵菩薩に説いてもらいなさいと。
堅淨信菩薩に言ったんですね。
で、堅淨信菩薩は、やっぱり如来様が一番お偉いんだから、その如来様である貴方様がお説きにならないで、なんで菩薩であるお地蔵様がお説きになるのでしょうかと、そういうような疑問を抱くわけですね。
何故、如来様であるお釈迦さまがお説きにならないんだろうとね。
そしたら、お釈迦様が、地蔵菩薩は菩薩だ、私は如来だと、そんな差をつけて考えてはいかんぞと。

「此の善男子発心してより無量無辺阿僧祇劫を過ぎ、久しく己に薩婆若海を渡りて功徳満足せり、権巧現化して影の如く十方に応ず。復た能く一切の刹土に遊んで五濁悪世に於いて化益偏えにして衆生を成熟す。唯、遍吉と観世音を除いて諸の大菩薩の皆及ぶ者有ることなし。此の故に我今此の菩薩をして説かしむるなり」と。」

この「薩婆若海」薩婆若というのは、要するに覚りなんですね。
仏様の覚りをいう一切智。一切の智慧、般若ですね。
だから等覚の菩薩といいますね、お地蔵様を。いつでも仏様に成れるけれども、ご誓願が終わらないために菩薩になっておられるだけのことで、もう一切の智慧を獲得されているのだと。

「権巧現化して影の如く十方に応ず」
衆生済度の為には何処へでも現れて行くと。
このお地蔵様に匹敵するのは、遍吉と観音菩薩を除いて他の菩薩は及ばないとありますが、遍吉というのは、普賢菩薩のことです。
弥勒菩薩のことを、阿逸多菩薩(アイッタボサツ)とも言いますね。
そういうふうに、ここでは普賢菩薩。
だから地蔵菩薩に聞きなさいと。こういうことですね。
そこで納得しまして、それを聞くわけです。

「爾時、地蔵菩薩摩訶薩、堅淨信菩薩に告げ給わく。善男子、諦かに聽け当に汝が説くべし。仏の滅後、悪世の中にして諸有の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷は因果の法に於て未だ決定の信を得ず。」

この優婆塞というのは、在家で仏教を修行している男性のことで、女性のことを優婆夷。在家の仏教信者ですね。
比丘、比丘尼は仏教教団内の仏教信者ですね。坊さんと尼さんですね。
その仏教信者であっても、因果の法に於いて、末法に入ると決定の信を得ずということです。
というのは、100%信じるというところにはいかない。

「無常相・苦相・無我想・不浄想を修学して成就すること能わず。」
というのは、仏教の人生観ですね。
所業は無常であると。
そして一切は苦であると。この世は無常でこの世は苦なんだと。
だから無我を学ばねばならんのだと。
こういうふうな無常とか苦というのは、有我からくるのだから。
我があると思うから苦や無常があるのだから無我にならなければいけないんだと。
その無我ということもかわらない。
この世は汚土というんですね。
汚れてる。浄土に対してこの世を汚土というんですね。
我々は浄土を知りませんから、この世を汚土だといわれてもピンとこないですね。

「四諦・十二因縁の法を観ること能わず」
この四諦(したい)というのは、般若心経に、苦集滅道も無しと出てきますが、煩悩プラス業が、苦になる。苦になるということは、結局のことろは死なんですね。死ぬということなんです。生死。

仏教は、一旦救われたら永遠に死なない。
例えば極楽浄土へ行ったら極楽浄土というところは無量寿国という如く、無量の寿の国と。
だから無量の命の国ということで死なない。
死ななくなって、はじめて救われたということになるわけです。
これを解脱というのです。
生死を繰り返すことを仏教では迷いといいますが、それを出ることを解脱というのです。
その輪廻のもとは、煩悩と業だと、それによって生死の苦というのがあり、煩悩と業が集まって苦になる。道というのは、八正道というのがあってそれによって苦が滅する。
つまり生死の輪廻が滅するんですね、つまり解脱する。
これが四諦。それをもう少し詳しく説いたのが、十二因縁。
この十二因縁というのも般若心経の中にありますが、無明も無く。無明の滅することも無く。尽きることも無く。乃至老死も無くと一番初めに無明というのが書いてますね。
これが十一あって一番終いに老死とりますね。
これが十二ありますので、これを十二因縁といいますね。
老死というのはつまり生まれたり死んだり、これは死だけでもいいわけです。これは輪廻ですね。
その輪廻を何のためにするのかと。

十二因縁の始めの無明ですね。惑は煩悩ですが、これは荒い煩悩ですね。
怒りとか愚痴とか。
ところが無明という煩悩は自分さえ気がつかない、心の奥の方にあってね。
ですから根本煩悩。
これはもう自分では分からないんですね。
修行をして覚りが上へ上へと解脱に近付いてきたらはじめて分かってくるような、つまり無我に成れない煩悩なんですね、無明というのは。

ですから無我が分からないという、四諦も分からない十二因縁も分からない。無我のことについても分からない。
そういう人々が大勢生まれてくる時代になってくる。末法はね。
だから不生不滅というようなこともそういう深い仏教のことも分からない。
だから罪を犯して、十悪の業を作らないと思っても、どうしても作ってしまうというのですね。
人を殺すとか物を盗るとか、そういうふうなことをついやってしまうと。
十悪ですね。

仏法の心理を心から信じるということをなかなか出来ない。
そういう時代にはいってきて、その衆生をどうやって救うのかということを訊ねているのですね。

「四諦・十二因縁の法を観ること能わず。真如・不生・不滅等の法を解すること無し。此の故に畢意(ひつい)して十悪の業を作らざる事能わず。」
と、いうことになるわけですね。

「三宝の功徳に於いて専信すること無し。」
三宝、仏法相を深く信じる、ということがなかなか出来ないんですね。
そういう時代に入ってきて、そういう衆生を、どう救うのかというのを訊ねているのですね。
もう一回繰り返してるんですね、お地蔵さんもその通りだその通りだと、そういうことをしたらこうなってくると。
そこで説明が始まるのですが、難しくなってくるので、占いということを説いたお経がありますよということを言いたいのですが、而もそのお経をお地蔵様が説いてる。
ただここで申したいのは、占いのための占いじゃないということです。
その占いを方便として済度していく。
教化していく。ということなんです。

「一の輪相は能く宿世に造れる善悪の業を示す。二の輪相は宿世の業の久近と強弱、大小の差別を示し、三の輪相は三世の中の受報の差別を示す」
一の輪相とは、前世でいったいどういう業を作ってるかということで、善いことをやってるか、悪いことをやってるか。
二の輪相は、宿世の業の、その宿世といたって、無間にこの世へ生まれてきてますね、この世へ我々は生まれてきてますけど、この世へ生まれる前は霊界へ居った。
その霊界に居る前は、またこの世に居った。