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アインシュタイン・ハイツ 104号室

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或るお隣の友人


 駅から歩いて10分ほどのところ、通りから左の路地を入るとじつにレトロな界隈がある。場所としてはやや分かりにくいので、その石畳の通りを知らないひとは少なくない。はじめて訪れたひとは駅の近くにこんなところがあったの、と驚くのだった。
 そのような界隈に並んでいる店のひとつ、家具屋兼雑貨屋でミナミは働いている。ミナミの祖父の店であった。
「こりゃあ、もうお客は来ないな」
 午後五時、辺りはもう薄暗く雨が降っている。その日は朝から曇り空で、予報どおり昼から雨が降り始めていた。気温も下がり、夕方になってもしとしと、雨は止まない。春めかしい感じは今夜にかぎってどこかへ行ってしまっている。
 六時になれば日も落ちて、街灯の明かりが灯った。そのときにはすでに家具屋の閉店準備は済んでいて、ほかの店もそろそろ閉めようかというところだった。店の明りがぽつぽつと消え始める。ミナミは店の扉を開けたまま、外の雨の様子を入口に置いた椅子に座って眺める。どこか幻想的な石畳の界隈はミナミの小さな頃からのあこがれだった。
 転勤族で小学生の頃から何度も転校を繰り返し、故郷というものを意識したことがなかったミナミにとって、一年に一度訪れる祖父の暮らすこの小さな町には幼いながらどこか懐かしい感覚を持っていた。そして何度も遊びに行った祖父の家具屋。その石畳のゆるやかな坂。さまざまな店。古い建物のなかにひそむあたたかな雰囲気。だが、本当はそのようなことを三年ほど前まで忘れていたのだ。
 高校生のときに寮に入るようになって、社会人になってもその辺りに部屋を借り、住むのだが、一番長く定住したその土地は都会だったこともあってか自分に馴染まず、どこかふわふわした安定感のなさで周りと自分とが隔たっているような気がしていた。
 そうしたとき、なにかの拍子に祖父に店に来ないかいう誘いをうけて、ミナミはこの町に来た。それまでは忙しいこともあって祖父にはだいぶ会っていなかったのだけれど、あの幼い頃の石畳の通りへのあこがれとこの町のなつかしさがミナミの背を押したのだった。
 こちらに来て、この町の空気に触れ、この通りで音楽を聴くようになったいま、ミナミの時間はゆるやかで心は驚くほど穏やかだ。

 ふと水音が聴こえたかと思うと、左側の通りからりりこが淡い黄色の傘をさしてこちらに向かってくるのが見えた。午後六時半前、彼女にしてはやや早い時間である。
「りりこ」
「あら。ミナミさん。こんばんは」
 傘の下で、彼女はいつものようにおっとりと微笑してやわらかくミナミに挨拶をした。
「今日は早いじゃない」
「あら、そう?」
 彼女は不思議そうに首をかしげて、けれどすぐに合点がいったように「そういえば、雨が降って暗かったのね。暗いから早めに来てしまったのねえ」と笑んだ。そして、いま何時かしら、とミナミに尋ねた。
「六時半前」
「あら、ほんと」
 りりこは少し驚いたように目を丸くした。
 彼女、森野りりこはミナミの友人である。家具屋の隣りにある楽器工房の楽器職人だった。どのような経緯でこの工房にいるのかは分からないが、昨年からこの工房でひとり楽器をつくっている。その前に工房に居たのは、ひとりのお爺さんで、祖父の友人だったというがミナミは話したことがなかった。そのお爺さんとりりこの関係はまだ訊けていないが、ミナミは勝手に自分と同じように祖父と孫だろうと思っている。
「時計、あいかわらず持たないのね」
「必要性を感じないのよねえ」
 りりこが時計はおろか携帯も持っていないことを知っているミナミは、そう言って傘をたたむ彼女がいまだにとても不思議だった。その容姿が言動とあまり合っていないということもあるのかもしれない。口元にななめに並ぶふたつのほくろ、ゆるやかにパーマがかったショートボブの毛先からのぞく耳に数個のピアス、そして女性らしいジーンズスタイル。stylishな雰囲気であるのにどこかおっとりとしていて、機械の扱いが下手だった。
 りりこが扉を開けて、工房の電気をつける。
「まあ、いいわ。ねえ、今日はそっちもお客少ないでしょう。カプチーノ、ごちそうしてちょうだい」
「ついでに音楽も好きなもの、どうぞ」
「ディスクもいいけど、あとで手が空いたら弾いてよ」
「あら、いいわよ。なにがいいかしら」
 雨の降りつづける中、家具屋の電気が消えた。そのうちに、本屋や洋菓子店、花屋の窓も明りが消え、辺りは街灯と工房の窓の明かりだけとなった。



*



 ミナミは勝手知ったるようにレコードを回して工房に音楽を流し始める。80年代の洋楽。
「最近どう、なにか変ったことある?」
 奥にある小さなキッチンから出来上がったcappucchinoをトレイにのせてりりこがこちらに戻って来たところで、ミナミが訊いた。そうねえ、とりりこは少し考えて、そういえばとハイツに新しい入居者のあったことを思い出す。
「住んでいるハイツにあたらしい住人さんが増えたことかしら」
「ああ、アインシュタイン・ハイツの」
 りりこがアインシュタイン・ハイツに住み始めたときにはまだ空いていた部屋が、今年の春になっていつの間やらすべて埋まったらしい。なにぶん昼間は寝ており、呼び鈴が鳴ってもだいたい午後二時くらいまではベッドから起きださないし、学生や社会人が帰宅するちょうど直前にハイツを出るため、まだすべての住人をあまり把握できていない。お隣にいたってはどちらも学生らしいのでなおさらだった。ただ妙ににぎやかになったと感じている。訊くところによると双子の男の子や着物のきれいな留学生もいるらしい、そろそろ挨拶をしなければと思うのだが、機会がなかった。そのことを話すと、ミナミは「なにか、近いうちにハイツ内で行事があればいいね」と言った。するとそれはりりこにとってなんとも素敵なことに思えた。
「そういえばそうねえ。なにかあれば参加しようかしら」
「この時期だと花見かな」
「夜桜のほうがいいわ。雨で桜が散らないといいけど」
「りりこは完全夜型だからなあ。でもこのくらいだったらたぶん大丈夫」
 ぽつぽつと水滴のつく窓のほうを見ながら言うミナミの言葉にりりこは、そうね、きっとそうねえと笑んで、カプチーノをミナミに渡す。

 夜中までずっと雨音は鳴りつづけた。その雨音に混ざって、そのうち工房からヴァイオリンの旋律が鳴りはじめる。モーツァルトだった。春の雨夜、職人とその友人以外に、その音色を聴くものはいない。