小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

和尚さんの法話 「臨終の一念」

INDEX|2ページ/4ページ|

次のページ前のページ
 

その三界の福を打ち消してしまうというのです。
せっかく百年も善いことをして、そのまま死ねば例えば天上界へ生まれるはずの人が、臨終の一瞬の悪心を起こしたがために三界の福を壊してしまった。
そして悪道に落ちていってしまった。ということです。

四、
「盛(じょう)年にして患いなき時は懈怠(きたい)して精進せず、衆の事務を貪営し死の為に呑まるるに臨みてまさに善を修せんことを求む。 精勤習心の者は終時悔恨無し。 心意既に専ら至らば錯乱の念有る事無し。 習心専至ならざる者は臨終に必ず散乱す。」

                        ― 大荘嚴経論 ―


「盛(じょう)年にして患いなき時は懈怠(きたい)して精進せず」
日頃、健康なときは後生のためにと思うて精進しないで、なんとなく浮かれて日を送る。

「衆の事務を貪営し死の為に呑まるるに臨みて」
することは日常我々が生活をするために金銭的な、そういう欲望のために心を労して、そして後世のことは気がつかない。
そして死ぬときになってはじめて後悔する人は後悔する。
後悔できればまだ幸せですね。
心識混迷になってきたら後悔の念も起こらないですから。
そのときになってはじめて後悔する。
後悔して間に合う人もあれば遅い人もある。
それは宿善の致すところですね。

「精勤習心の者は終時悔恨無し」
一所懸命に努力して仏道に精進をする人は、臨終のときに後悔することはない。

「心意既に専ら至らば錯乱の念有る事無し。」
常に仏道に志す。或は人道に志すという善いほうへ善いほうへと心が精進する。
そういう人は死ぬときがきても錯乱が起こらない

「習心専至ならざる者は臨終に必ず散乱す」
一所懸命にならない者は、健康なときは浮かれてしまった人は臨終のときに心が散乱する。
散ってしまって統一ができない。錯乱状態になってくるわけですね。

「水火に入る苦みなのめならず。 其の志深からずば如何が堪え忍ばん。 苦患あれば又心安すからず。 仏の助けよりほかには正念ならんこと極めて難し。」
                                ― 発心集 ―


なのめならず、というのは並々ではないという古い言葉です。
水火の苦しみとは並々ではない、大変な苦しみだということです。

「其の志深からずば如何が堪え忍ばん」
その水火の苦しみをちゃんと理解できてた場合ですね。
例えば、自分の身体に油をかけて燃やして死んでいきますね、その人にとってはひとつの信念に燃えてますから。
わかりやすくいえばそういう状態ですね。
そういうふうに信念が深ければ耐え忍ぶことができるが、ちょっとのことじゃ水火の苦しみとは、耐えられることじゃない。

「苦患あれば又心安すからず。」
それに付随した精神の錯乱とか、顛倒とか、そういう心理状態になってくるということです。
だからそういうことになってくるから、仏様のお助けによって正念にしてもらうわけです。
私たちはいまのこの状態は失念、錯乱していないから正念ですね。

ところが臨終のときに必ずしも正念にいけるだろうな、と平素は思うているけれども、そうはいかない。
その苦しみによっては顛倒、錯乱、失念になってくる。
心識混迷するというそういう状態を迎えることになるから、そういうことにならないように日頃から仏様のお助けを求めていかなければ、いざそのときに正念にはならないということです。

これは発心集という書物を書いた鴨長明ですが、あの方は詩人で有名ですが、浄土に非常に帰依した方で、歌よりも西方浄土を願った人なんですね。そのために隠遁した人です。
ここにご紹介をしましたのは、その発心集のなかの一説です。
先ほどの正念といいますのは、顛倒、錯乱、失念ということに対して、正念というのです。
そういう状態にならないことを、正念というのです。
従いまして、臨終の一念は平生百年の業に勝ると、この言葉を頼りにしているわけです。
臨終のときに正念にならなければ、後生の用意ができない。平生、悪行をしていても、臨終の一念でもって極楽往生できるのです。臨終の一念を確かなものにしようと思えば、そのまえに正念でなければならないのです。

六、
「大方、人の死ぬる有様あわれに悲しき事多かり。 物の心有らん人は恒に終わりを心に懸けつゝ苦しみ少なくして善知識に逢わん事を仏、菩薩に祈り奉るべし。 若し、悪し病をも受けつれば、其の苦痛に責められて臨終思うようならず。 終わり正念ならねば一期の行いもよしなく、善知識のすすめも叶わず。」

                           ― 発心集 ―



物心有らん人というのは、仏道に心を向けるとか、後生に心を向けるとか、そういうちゃんとした心得の有る人ということです。
そして常に臨終ということを心に傾けている。
臨済宗の或る偉いお坊さんが、禅宗の方にしては素晴らしいと思う法語があったそうです。
自分が死ぬときは、願わくば小脳小病で終わりたいと。
昔の禅宗の偉い坊さんの言葉のなかにあるそうです。
願わくば、苦しい悩みや病気の苦しみがあなく臨終を迎えたいということですね。
この言葉を読んで、和尚さんは珍しいなと思ったそうです。
今の禅宗の方は後生のことを言わないから。
禅宗も昔はそうだったと思うのです。
昔は浄土門、聖道門にかかわらず、皆後生ということを考えたと思うのです。

白隠禅師は悪いことをしたら地獄へ落ちるということを子供の頃から信じてる。
地獄へ落ちるのが恐ろしくて、それを逃れるにはどうしたらいいのか、ということから仏道に入ったというのですから。
ですから昔の禅宗の坊さんというのと、今の禅宗の坊さんではだいぶ考え方が変わってると思いますね。

「終わり正念ならねば一期の行いもよしなく、善知識のすすめも叶わず。」
というのは、臨終のときに枕辺に善知識を呼んで、心に如来様のお姿を思い浮かべよと言うのですが、ところが苦に攻められて思うように精神統一ができないわけです。
仏様のお姿を思い浮かべることが出来なければ、南無阿弥陀仏と称えよということです。

一期というのは一生のことです。
一生の間に、あの人はいい人だったといわれるような人でも、臨終に病の苦しみに攻められたらそれは役に立たない。前世の業のほうが強いわけですね。
病に苦しむというのは前世の業ですから。
こうして善知識に教えてもらっても、苦しみのほうが先立ってちゃんと聞けないということです。
だから臨終の正念を忘れてはいかんというお諭しですね。


七、
「能く能く執心、忘念をば、わきまえて平生猶慎(へいぜいなおつつし)むべし。 況や臨終には殊に用意有るべきものなり。 平生の心はゆるく、善悪共に勇猛なること少なし。 臨終には執心も信心も烈しき心有りぬべし。 大論に「臨終の一念は平生百年の業に優る」と伝えるは此の由なり。 されば能く能く臨終は心すべき事なり。」

                           ― 紗石集 ―


これは禅宗の昔のお坊さんのあらわした書物の一説です。
執心というのは、物に対する執着ですね。物に心を奪われてしまう。