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アノニマスアイデンティティ

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 テーブルの上にロングの空き缶が四本、五本と増えるにつれ、啓次の行動は酔っ払い特有の予測不可能な動きを加速させた。
 まず、器量の良い雌の愛犬ペコをキャバクラ嬢のかわりに隣にはべらせ、ビールを呑ませた。普段はしないが、呑みすぎたときは度々このようなことをする。ペコのやわらかくウェーブがかかった茶色の毛は豊かで、キャバクラ嬢の盛った髪を思わせるのだ。
 酔ったペコが寝込んだあと、彼は三人分の冷凍唐揚をレンジで暖め、加熱しきれていない半分凍ったままの肉をシャリ、シャリッという不気味な音を響かせながら缶ビール片手に食べたかと思うと、突然炊飯器のところへ飛び出してしゃもじで米を口にかきこむ。次に、冷蔵庫でトマトと小松菜を見つけ、エキストラヴァージンオリーブオイル、アップルヴィネガーを大さじ一ずつに塩と胡椒を少々加えてよくかき混ぜる。そのドレッシングをやや崩したトマトと小松菜にかけてプロはだしのこまめな手つきで軽く揉み、いかにも健康そうな自分で作っていてもほれぼれとするサラダの完成を見るなり、手づかみで食べる勢いでテーブル上にドレッシングを撒き散らしながら完食した。
 食後は骨を抜き取られたかのような軟体動物然とした動きで、ソファーに深々と座りビール片手に人生に何の疑いも迷いも持たなかった昔日の懐かしい映画やアニメを鑑賞。思い出すのは成長する主人公に想いを寄せた少年の日々。様々な人との接触に葛藤し、抗えぬ社会構造と運命に打ちのめされながらも、機動スーツを着用し敵を次々と撃破する……。
 辿れる記憶はここまで。
 夜になって帰宅した両親が居間で見たのは、ソファーの上で酔い潰れ、両手両足をだらしなく放り出した啓次だった。母が近寄ってみれば、昔夫に無理矢理に呑まされたイグアナ酒のように異様に生臭い。体がアルコールに溶けかかっているのかと思うほど。
 社会人の先輩である父は推し量るところがあったのか、彼をそのままにしたが、風邪をひくことを怖れた母親にまもなく起こされると、羞恥も感じられぬほど朦朧としたなかでシャワーを浴び、そのままベッドに倒れこんで朝を迎えていた。

 注文履歴を見ると、記憶が飛んだ夕方の時間になっている。泥酔状態で自室へ行き、パソコンから寝袋を注文していたらしい。
 仕事で忙しく、アウトドアに行く予定なんてない。なぜこんなものを注文したのか。たしかに学生時代はオートバイにも乗っていて、こんな寝袋をもって泊りがけのツーリングに行きたいと考えたこともあるが、結局しないまま就職。乗る暇がなくなって手放してしまった。以来、アウトドアとは無縁の生活が続いているのだ。
 返品できるだろうか。できるとしても返品作業なんて七面倒くさい。書類への記入やら返送手続き程度であっても無駄に体を動かしたくない。
 ではいっそのこと返品しないで、災害用に準備しておくのも悪くないのでは。家には缶詰とペットボトルの水以外では何も災害用の備蓄がないのだから、寧ろ必要ではないか。
 その思いつきは悪くなかった。気持ちがすっと軽くなっていく。
 まあいっか、とメールチェックを終え、メールソフトの上にミュージックプレイヤーのウィンドウをたち上げ、ヘッドフォンを手に取って頭からかぶる。真冬に雪が降りしきり、風に枝がカサカサとこすれ、エゾリスが雪の上を走り去るステレオサウンドが、眼を閉じた彼の両耳に静かに響く。時折気付いたように眼をあけ、監視カメラの映像を眺める。

 監視カメラは啓次の父が二年前に設置した。
 設置する前は、このビルが駅に近く、また一階のコンビニで酒を販売しているせいか、一年に最低一回はビル前に見るも汚らしい反吐がまかれていた。人間関係に疲れたサラリーマンや派遣会社に搾取された派遣労働者など日頃の鬱憤をため迷惑を顧みない酒呑みたちが、冷えた心と体を酒で暖めようとしてつい量が過ぎるうえに週末の開放感が拍車をかけるのかどうかは定かではないが、たいてい冬の週末の夜中に起こった。
 言葉として表現も表明もしえないものが、嘔吐の量で想像できた。
 冷え込みの厳しい朝方に、凍りかけてシャーベット状になった反吐を父が見つけて洗い流し、水の冷たさと怒りで震える手をさすりながら部屋に戻って来たことは一度や二度ではない。啓次が最初に見つけた場合は彼が洗い流した。
 忘れられないのは、麺、肉、人参やもやしなどがあきらかにわかり、酒の臭い芬芬たる反吐を、愛らしくチュンチュンと鳴く雀が群れてついばんでいた三年前のある朝。あまりにもおいしそうについばむ雀の健啖さに眉を顰め、そんな汚い物を喰うんじゃないと、その小さくてかよわそうな体を気遣ってすぐに洗い流したが、もしかしたら食べ物の少ない冬に栄養価の高い貴重な食料を奪ったのかなと、自分の短慮さを後悔したという思い出すらある。
 反吐だけですまなかったのが、一昨年の二月。寒風吹きすさぶ、コンビニの閉店時間の午前零時過ぎ。大きな音に飛び起きた父が一階へ駆けつけると、反吐がぶちまけられていただけでなくビルの出入り口のガラス扉までが割られていた。監視カメラを設置したのは、この件が切っ掛けだった。ついでにガラス扉に監視カメラ作動中という張り紙をした効果もあってか、その後迷惑者が反吐を撒き散らしたことは一度もない。
 半球型の透明なカバーに覆われた四つの監視カメラは二つが外、残りの二つは割られたガラス扉を抜けた通路の天井に設置されている。コンビニの出入り口とは反対側のビルの端にあるこの狭い通路は、奥の階段へと通じており、通路の左側はただのコンクリート壁であるのに対して、右のテナント側は通路の途中まで腰高の透明ガラスが嵌められるという変わった設計となっている。それはテナントの狭さを少しでも感じさせないための工夫として父が考え、常々自慢しているものだった。よって、この通路側のカメラからも店内の様子が見える。おまけに、外のカメラは存在があきらかなのだが、通路側は薄暗い天井に取り付けてあるので気付きにくい。すると見えてくるのは、カメラに映っていないと思っている人の生態。例えばいちゃつくカップル。見たくもないのについ見入ってしまう。そしていつもながら感嘆するのは、最近の監視カメラの驚異の解像力。カップルがどんなキスをしているのかさえわかる。
 高性能な監視カメラ。その高性能さは両親にはより確かな安心を提供するための機器だったが、啓次にはより密かな楽しみを提供するものとなった。外に出ずに、自らを晒すことなく、外の様子と他人の行動を覗き見る。もう窓から外を眺めていたときの通行人と眼が合う気まずさもない。
 さらに、外出先からでも見られるようにしたほうがよいと父に言って、簡易サーバーを設置しインターネットに接続してからは、いつでもどこからでも楽しめる。自分専用の街灯ライブカメラ。この四つの監視カメラは、啓次の貴重なおもちゃとなっていた。

 外の世界をモニターを通して認識する双眸。
 無数の顔が前後左右に行きかう街の雑踏。そのなかに肌身をさらす。物心つかないときから十二分に慣れていたはずなのに、いま常に感じるのは、上京したての田舎者のような眩暈にも似た人酔い。