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和尚さんの法話 「因果応報」

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因果応報という言葉を聞かれたことがあると思いますが、この因果という言葉は仏教の指導原理で、一番大事なことなんです。
因果というのは、善因善果、悪因悪果と、いうことなんです。
そして仏教は三世因果ということを説くわけでして、霊魂不滅というのは仏教では前提となっていますから前にこの世に居ったときと、今と、この次にまたこの世へ出てくる。
これを繰り返しているわけです。永久に繰り返しているのです。
霊魂は不滅ですから、無くなってしまうということはないわけです。
三世因果というのは、お経の中にこういうお経文がありまして、「過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ 未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よ」と、こういうお経文があるわけです。

この場合の過去というのは、前世のことを言うわけですね。
未来というのは、死んであの世へ行ってまた、この世へ生まれてくる、次の人生。その結果になります。
その三世にわたって因果というのは報いてくるのです。

そして世間では先祖の因縁ということを言いますが、仏教では先祖の因縁ということは言いません。
どの宗教かは知りませんけれど、他の宗教の言うことであって、仏教では言わないです。
先祖といえども、自分以外の人になりますね。父でも母でもね。自分以外の人でしょ。自分の以外の人が行ったことが、その人に報いずに行っていない子孫の自分に報いてくるということは言いません。

「父不善を為せども 子代わりて此れを受けず」と、こういうお経もあるのです。
お父さん、お母さん、先祖ということです。
不善とは悪いことですが、善いほうはいいですが、悪いほうは気をつけないといけないですね。
不善とは悪いことが出てくるのですからね。お父さんの行ったことの結果を子供が代わりに受けるということは無いのです。
善い行いも悪い行いも行った人が報いるわけです。こういうちゃんとしたお経があるわけです。

また「子不善を為せども 父代わりて此れを受けず」
父の行った結果が子が行けることもなければ、子が行った結果も父が受けることもないのです。行った本人が受けるわけです。
自業自得という言葉がございますでしょ。

そういう言葉は、言葉として皆さんは覚えていらっしゃると思うのですけれども、自業自得とは、自分が業を積んで自分が受けるということですね。行った本人が受けるのです。非常に公平ですね。
行った人が受けずに行っていない人が受けるというのは不公平ですけれども、行った者が受けるのですからね。そういう教えです。

順現業、順次業、順後業、順不定業と、こうありますが、順現業というのは現在のことですね。
この世で行った善悪の行いが、死ぬまでの間に、この一生の間に報いてくるのですが、これは少ないそうです。
これなら善いことを行った人が善い結果が現れるし、悪いことをした人は悪い結果が出るから分かるのですが、これはほんの一部しかないそうです。
これが順現業といって現世の業が現世に報いてくる。

順次業というのは、この世の善悪の行いが、この一生には報いてこない。
たとえ殺人を犯しても、この一生の間には報いてこないのですが、死んであの世で報いてくる。
たとえば地獄へ行くとかね。この世の業が次の世界で受けるということです。これが順次業といいます。

それから順後業というのは、この世で善悪の行いをして、その報いがこの世では報いてこない。
次の世でも報いない。またあの世へ行って、この世へ生まれてきたときに報いてくるのです。これが前世の因縁というわけですね。

それからそれ以後、生まれたり死んだり、生まれたり死んだり無限に繰り返してきているわけですから、人間だけじゃなくて動物も全て霊魂のあるものはね。
何時その報いが来るかわからないけれども、その何時かのときに生まれてきたときに、ずーっと前世で行ったことが報いてくる。
これが順不定業といいます。
これは何時来るかわからない、然し何時か必ず来るわけです。こういう四とおりを説いてあるわけです。

お釈迦様のお弟子さんの目連尊者という方は、最後は殺されて終わるんですね。
あんなに徳の高い方なのに最後は殺されて命を終える。
外道というて、他の宗教に仏教は妬まれましてね、そしていろんな迫害を受けるのです。
そのひとつの方法として目連が襲われるのです。
外道から襲われて、そして殺されてしまうのです。
殺されたけれども、即死はしなくて、息があったらしいです。
それで他の友達が目連を見つけてお釈迦様のところへ連れて行くわけです。

その友達が、「目連よ。君は仏教教団のなかでも最高の弟子で、しかも神通第一という能力があるわけです。
神通力は他の誰よりも優れているというのに、どうしてこんなことが予見できなかったのだ」というわけです。
舎利弗は、智慧が一番優れてた。

阿那律と言う人は、天眼第一で、どこまでも見通すことができるという通力で、皆こいいう特技があるわけです。
目連は神通第一だという。
で、友達が目連は釈尊を最高の弟子で神通第一だという君が、どうしてこんなことが予言できないんだと聞くわけです。どうしてこんな死に様するんだというわけです。
目連は、「これは決定(けつじょう)の業であって、神通力の神の字も思い出せなかった」というのです。
決定の業とは、業が決定しているということですね。「業決定は転じ難し」というお経文があるのです。

お経ということは、お釈迦様のおっしゃったことですね。業決定は転じ難し。
我々は知りませんけれども、生まれたときに、たとえば三十歳で死ぬとか、五十歳で死ぬとか、そういうふうに決定的な業を持って生まれてる人が居るわけです。
そういう人は避けられないということです。

例えば、三十歳で死ぬというような決定的な業を持って生まれてきている人は三十歳になって大病をして死ぬとかね。
世界中の名医を呼んで診てもらっても、その人は治らない。兎に角そこで死ぬのです。
災難にしてもそうですね、どんな死に方をするか分かりませんが、それも前世の業によっていろいろ違ってきますね。
原因が違うと結果も違ってくるわけですから。

業決定は転じ難し。
目連は、これは自分の前世の決定の業であって、自分が神通力を持ってる神通力の神の字も思い出せなかった、ということがお経に出てきます。
そしてお釈迦様のところに行って、お釈迦様は、「そうだ、目連は前世の不徳によって、殺されて死ななければならないんだ」と言うのですね。

それはどういう業がございましたのでしょうかと聞きますと、目連は前世で、まだ在家の生活をしていて、結婚生活をしていました。
そしてお父さんが亡くなって、お母さんとお嫁さんと三人で生活をしていたのです。ところが、お嫁さんと母親は仲が悪いのですね。
それで目連が、そのときは目連という名前ではありませんが、そのときの目連が、自分の母親に殺してやろうかと、言ったのです。
実際に殺していないけれども、瞬間的に殺意を持ったのかもしれませんけれども、そのときに殺してやろうかと、そう言ったんですね。
で、その報いが今ここで決定の業として殺されて終わるんだということなんです。