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和尚さんの法話 「死者と仏事」

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『葬式』

死者と仏事というお話でございますが、皆様方は仏教に縁のある方々だと思いますで、
こういうものだと充分お分かりになっていただいているわけですけれども、
仏縁にご縁の無い、ほとんどそういうご縁の無い人だと思うのです。


仏教に触れるのはお葬式、それから自分の家の年忌の法要。

或るはお寺で営むお盆に施餓鬼に出席したりというふうな程度で、それだけしか経験なさらない方は、結局仏教というものはお葬式と法要という儀式ですね。

そして僧侶というのはその執行員で、仏教というのはただたんに死者を扱うそういうものだというふうにしかお考えになっていない人が少なくないと思うのです。


和尚さんは、寺に生まれましたけれども、学校で学ぶ仏教学というものを学ぶまではそういう感じだったそうです。

仏教というのは、葬式と法要だと。儀式なんだと。

その儀式に立ち会うのが坊さんなんだというような考えしか持っていなかったそうで
す。


ですからそういう方はいらっしゃると思うのです。

とくに在家の方はそういう方は多いと思うのです。

然し、そういう儀式は儀式ですけれども、それはたんなる儀式ではないと、それには重大な意味があるんだということです。


そこで私たちが、人が亡くなりますと、一番先に行われますのが枕経なんですが、
この枕経というのはほんとうは早いほどいいのですが、然し現在ではそうはいかないですね。

第一、自分のお家で亡くなる方が少なくなってきていますね。

病院で亡くなりますから。

病院で枕経を、という方はめったにいませんから。

それで病院で亡くなって、時間をかけてお家へきて、そしてお家でまた時間をとりますね。

それからお寺へ連絡をとる。

ですから亡くなってから枕経まで何時間か経過していますから、
だからもう二時間であろうが五時間であろうが五十歩百歩で、
いまさらもう急いでもしょうがないと思います。

だから早くとも遅くともかまわないと思うのですけれども。

とくに夜中に亡くなったという方はお寺へ連絡するにも気遣いなさって、翌朝にする。

それでもまあせいぜい七時ですね。


昔はそうじゃなかったんですね。
仏教も純粋でしたし信じる人も本気で信じたですね、坊さんの教えをね。


そしてお寺と檀家さんと近いですね、昔はまずは機動力がありませんから歩いて連絡をとりますね。

ですから今日のように遠いところのお寺と関係を持っているということは、まずはないと思うんです。


昔、幕府から檀家制度を決められたときでも、なにかのことで連絡をとりやすいようにと、いちばん便利な近いところを選んでると思うんです。

そういう制度ができる以前からやっぱり近いお寺と繋がりができてたと思うんです。



一箇所に一寺があってそこにみなが繋がっているということで、そういうことで昔は亡くなったら即座に、夜中であろうがなんであろうがそれが常識だったそうです。

和尚さんは大正時代の生まれですが、子供の頃は電話もないので、ちょうちんを持って夜道を迎えに来たという記憶があるそうです。

昔は遠慮もなかったし、そういうのは当然だと思ってたそうです。
ま、現在はそういうのも時間も経過してなくなってますけどね。

ほんとうは死んでからではなくて、これから今、死んでいくというときに、お経なりお念仏なりを聞かせてもらわないといかんのです。


『臨終』

「世尊よ、一切の衆生臨終のとき、一仏の名、一菩薩の名、或は大乗経典の一部分の一偈一行を聞くことを得ば」

と、これはお経の一説です。

今、亡くなっていくというそのときに、その人の側で誰かが聞かせるわけですね。

お坊さんであるし、或るは信仰のある家族の場合もあるし、近所の人であるし親戚の人であるしという場合もありますね、昔のことですからね。

これは経典そのものですが、これを昔は守ってたわけです。
お経を信じていましたからね。


そういう臨終の人が、お経を聞かせてもらったり仏様の名を聞かせてもらったり、そういうのを信じるのを見ていますと、「五無限殺害の罪を除く」たとえ無間地獄へ落ちるような罪。

或は人や殺生をしたというような罪。
そういう罪でも除かれるというのです。


ちょっとした業でも、ただたんにその罪を積んだままその人が死んでしまったら悪道に落ちるんだけれども、お経を聞かせてもらったり念仏の声を聞かせてもらうと、そういう五無限の罪でも除かれるんだから少々の罪だったら除かれる。

そういう用意のために臨終にお経を読むんです。

ですから死んでしまったら無駄ではないけれども、仏教のたてまえからいうと生きているときのほうがいいわけです。

本来は生きていたときにそういうお経を読んだはずなんです。


それが、生きているうちにお経を読むということは縁起が悪いと、本来は縁起がいいんだけれども時代が変わってくると裏返ってきて、縁起がいいことが縁起が悪いということになってくるんですね。

だから昔は道で坊さんに会ったら縁起がいいといいましたが、今は坊さんに会ったら縁起が悪いと、バスへ座っていてもなかなか横へ誰も座ってくれないそうです。(笑)


ですから病院へでも坊さんが来たら、ああお迎えやなあと、誰か死ぬのと違うかいなと、ね。

最近は寺と病院とわりと理解しあって、その院長さんに亡くなっていく方に話を聞かせてあげたいんだと、こういうふうな話ができてきたようですがね。生きているうちにお経を聞かせてあげないといかんのです。


「また閻浮提の衆生」
閻浮提というのはこの地球の世界の人のことですね。

お医者さんは、ご臨終ですといいますが、それは今死にましたよということでしょ。
この臨終というのは仏教の言葉なんです。

お釈迦様がつかっている臨終という言葉は仏教語なんですけれども、本来の臨終というのは、これから死んで行くという意味なんです。

まだ死んでいないんです。

これから死んでいくというときです。

それは五分のときもあれば、一時間のときもあるし、一日の場合もある。

とにかく助からない、死ぬだけだと、ただ時間の調達だけのことです。

たとえ一週間でもその人は死ぬよりほかはない人だったら、その人はその一週間は臨終なんです。

臨終というのはそういう意味なんです。

ですからこれから死んでいく人が、

「善悪ともに我この命終の人をして悪道に落ちたらしめんと欲す」と。

これは地蔵経の一説です。

お地蔵さんがお釈迦さんといろいろと話し合って、お地蔵さんが聞くことをお釈迦さんが説く。

それをほかの菩薩方が聞く。そしてまたお釈迦さんが答える。

こういういろんな対談が行われているのがでてるんですが、この場合は何方か忘れましたけど、これはお地蔵さんじゃなかったかと思うのです。

とにかく、善人であろうが悪人であろうが、これは我というのですからお釈迦さんと向かい合って対談をしている対抗者ですね。

なるべく落とさないようにと考えています、努力しております。

善人はもちろんのこと悪人でも落とすまいとしておりますと。